佐々町、芳の浦。この地に最初の坑口が開けられたのは明治10年。
厳密に言うと、佐賀出身の御厨儀八が鉱長をつとめた芳の浦炭鉱と明治44年に筑豊の高津豊太郎が開坑した佐々炭鉱の2坑がありました。
後に前者は廃坑となり、後者も赤字経営に苦しんだ末、昭和4年に住友合名会社に売却されました。様々な変遷の後、住友石炭鉱業に経営を移されたのが昭和17年のことでした。
(芳ノ浦炭鉱という名称は、後者の高津氏が始めた方を指します)
芳野浦炭鉱066

そこから最盛期を迎え、社宅が次々と増え、興風館という名の映画館や病院、2個所の共同浴場も建てられました。現在、西町、東町という地名が残っていますが、その辺り一帯が広大な炭鉱街、言うならば住友の街だったわけです。
下↓は昭和17年頃、芳の浦の朝市の賑わう様子と炭鉱住宅街です。
芳ノ浦朝市032

芳ノ浦炭鉱住宅033

これから坑内に向かう人車を写したものです。昭和21年の終戦時がもっとも華やかな頃で、鉱員数は1,000名を越え、4,000人もの人々がこの地で暮らしていました。
今の人に、「昭和30年くらいまでは、長崎は九州で1,2を争う、繁栄した県だった!」・・・と言っても、まず信じてもらえないでしょう・・・。
佐々住友芳ノ浦030

主に採掘していたのは、大瀬五尺層という炭層です。北松地方・最大の炭層で、その名の通り、厚みは五尺(約1.5m)あります。それでも大人の男子だと、少し前屈みにならなければならなかったはずで、北松の炭層がいかに薄かったがわかります。松浦三尺層などは1mにも満たない厚みしかありませんでした。こういった場所ではかがんだり、時には寝ころんだまま作業をしなければなりませんでした。
佐々住友芳ノ浦2031

現在の西町付近です。すっかり景色も変わってしまいましたが、まだ所々には、炭鉱住宅の造りの住宅も見えるようです。
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そして商店街です。さすがにお店の数はかなり減っているように思いますが、それでも往時をしのぶ空気感は十分に残っています。
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「長崎カステラ」の看板の見える製菓店さんで、ちょっと炭鉱時代のお話を聞けました。ちょうど自分と同じくらいのお子さんがいるということで、いろいろと話がはずみました。
カステラが美味しそうなので、買ってみると、しっとりして実においしいカステラでした!ぜひ、お勧めです!
井筒屋菓子店   857-0361
長崎県北松浦郡佐々町小浦免930  0956-62-2550 DSCF4510

商店街のすぐ近くには、住友芳ノ浦鉱の記念碑が立っています。
旧字体で刻まれています。
町の外れにあり、訪れる人もいないようです。しかし、これでも、こういう碑がたっているだけましな方で、他の中小鉱などは、何も目印となるものが残っていないため、場所すらも特定できない状態であるのがほとんどとなっています。
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そのそばに残っているコンクリートの台座です。用途ははっきりわかりませんでした。
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碑の側の、古い石積みです。苔むした色合いが、時の流れを感じさせます・・・。
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長崎市の人が、三菱のことを、「三菱さん」と言うように、今でもこの地区に古くから住んでいる方は、住友のことを「住友さん」と呼ぶような感覚が残っているようです。

町並みはどんなに変わっても、ヒトのココロはそう簡単には変わらないのだ・・・と実感しました。


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「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧


(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月