お盆にかけて、一週間ほど群馬県・高崎市に帰省しました。おかげで、普段は読めない本が何冊かじっくり読めました。
その中の一冊は、

「わたしは高島が好きです」(高島教師の会編・教育資料出版会)
わたしは005

当時の高島小学校の分会の教師達が作り上げたもの。・・・昭和61年、閉山の年の四月から翌三月・卒業期までの子ども達の心の動きと分会員である教師達の取り組みをまとめてあります。当時の「炭鉱」「閉山」というものを知る上で、とても貴重な資料と言えると思います。

特に四月の歓迎遠足の日に炭鉱で発生した爆発事故は、それまでの新一年生を迎えたにぎやかな時間を一変させました。遠足は途中でうち切られ、子ども達は不安な思いで帰宅をします・・・。残念ながら犠牲となった鉱員の中には、小学生の保護者も含まれていました・・・。そして、赤字の膨らんでいた高島炭鉱は一気に閉山へと突き進んでゆきます。

「炭鉱」というものは、その性質上、掘り続ければ必ず、その付近の石炭は無くなるわけで、安全に効率よく採炭できなくなった時点で閉山となり、新しい炭鉱が開発されてゆくわけです。つまり鉱員たちは、その都度、「移住」を迫られるわけで、引っ越しは他の仕事に比べて多かったと言えます。
しかし、子ども達にとって、慣れ親しんだ地域、仲間との別れは、当然ながら、大変さびしいものであったようです。大人にとってもヤマ(鉱山)は一家族という言葉が示す如く、炭鉱区は大変質の高いコミュニティだったのですが、子ども達にとっても、知らない場所の、知らない小学校に移らねばならないということは、辛い目・寂しい目に遭うということもすくなくなかったようです。
ましてや「閉山」となると、仲のよかったクラスがバラバラになるということであり、毎日のようにクラスに空き机が増えていくのは、残される教師や地元の子どもにとっても辛いことだったのです。

同書では、子ども達と一緒に「閉山させないで!」と手紙を書いて、時の総理大臣に送った取り組みや、離れていった仲間との結束を固める取り組みなど、分会教師たちの奮闘ぶりが紹介されています。
このような先輩・分会員(教師達)がいたということに対し、もと教師としても、その熱意に対し敬意を表したい思いで読みました。

残念ながらネットでも見つけることは難しい本なのですが、「炭鉱」というものの本質を知る上でも、大変重要な資料であると思いました。そう言う意味でお勧めの一冊です。

↓本日のツアーより。
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