今からもう50年以上も前の話。

私が住んでいたアパートは、戦後6,7年後に建てられたものだった。

全8棟には「うぐいす」「はと」「かもめ」といった鳥の名前がついていたが、間取りが少しずつ違っていて、いずれも風呂場は付いておらず、最も狭いものは、ベランダも無い一間だけというものだった。

私のいた「はやぶさ」には、かろうじて「洗濯場」があったので、風呂桶を置くことができた。

隣の「つばめ」には、それもなく、風呂桶はベランダに置いてベニヤで囲むしかないのだが、冬場は当然寒い思いをすることになる

その「つばめ」に生まれつき心臓が悪くて、とても体が弱い女の子が住んでいた。

冬場は寒いので、銭湯に行くのだが、心臓の弱いその子には、お湯が熱すぎて入れないので、母親は水でぬるくして女の子を入れていた。

そうすると、周りにいたおばさん達から、露骨に嫌な顔をされたらしい。


困った母親は同じ「つばめ」にいた知人のつてを頼って、洗濯場に風呂のある、うちの風呂に何度か入れてもらいに来たそうだ。

 うちの母親は貧乏だが、気はいいので、気持ちよく風呂を女の子に都合のよい温度で提供したらしい。

その時の女の子の様子は、唇が真っ青で、チアノーゼが浮かんだような感じで、あまりしゃべりもしなかったという。

結局、その女の子は、小学校にあがることができずに亡くなってしまった

父親は、看板描きの職人さんで、精霊船の帆には、その子が好きであったであろう、「みなしごハッチ」の絵が精魂込めて描かれていて、見た者の胸を打ったそうだ。

その後、両親とも割と早く亡くなられ、後にお姉さんひとりが残された。

これは、年老いた母親と古い友達との会話からつい先日、初めて知った話。

なぜ、こういう話をもっと早くにしないか、と思う。

うちも貧しくて、電話さえもなく、学校の連絡票には

〇〇米穀店(次)」と書いていた。

急な連絡は、近所の米屋にかけて、ということ。

そんな風に書くのは、その時代でも少数派だった。

みんなが貧しかった。困っている人も多かった。

でも、個々の家は今のような「閉ざされた空間」ではなかった

そんな貧しいうちなんかを頼ってやって来られ、その粗末な風呂場が役に立ち、その母子が助かったのであれば、こんなうれしいことは無い

今の時代だからこそ、この話は、少しは意味があるのではと思い、紹介してみました。

下の写真の右端に映るのが「つばめ」棟。

その母親も、このように元気に幼稚園に通う姿、そして成長してゆく姿をずっと見ていたかっただろう・・・。(右から3人目が私。写真は退色復元してあります)

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