アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

炭鉱町に住んだ人々

炭鉱の島で、子どもに託すこと

「唯一の信号 社会勉強の場」
5月25日の長崎新聞に掲載された、元・炭鉱の島、池島でのトピックスです。記事によると、小中学校前にある、この信号機は人口が多く車も多かった頃に設置された島唯一のもので、ほとんど車の通らなくなった今も、「本土に渡った時に事故に遭わないように」或いは「将来困ることのないように」と交通安全教育に使われている・・・というものです。
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長崎では最後から2番目、昭和61年に閉山した高島にも、島の子どもたちの安全教育のための信号機が、一ヶ所だけ残っています。こちらも「押しボタン式」の信号機ですが、信号が「赤」に変わることは、まずありません・・・
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炭鉱町に住んだ人々 ~ 「仕繰り」という仕事

仕繰り(しくり)というのは、坑道内に柱を立てたり、枠をはめたりして、坑道内を安全な状態に管理する仕事で、炭鉱にとって重要な仕事であるのは言うまでもないのですが、掘進や採炭という仕事に比べると、最前線よりは後方ということで、なんとなく安全で、地味というイメージがありますが、それはとんでもない間違いです。
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まずは、坑道を支える鉄柱ですが、ある程度までトロッコなどで運ばれた後は、写真のように、人の手で運ばれます。簡単に担いでいるように見えますが、おそらく一般の大人なら数人がかりでないと上がらないようなものだと思います。
以前、展示してある水圧式の鉄柱を持ち上げてみようとしたことがありましたが、とんでもない重さで無理でした。写真のものは、「カッペ」と呼ばれる初期の鉄柱ですので、更に重いものだと思います。
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炭鉱という場所 ~ 香焼炭鉱アルバムより

市立香焼図書館で複写させていただいた資料からです。
こういった資料も、やがては埋もれていくばかり・・と思いますので、ここに少しでも紹介したいと思います。
「炭鉱」という夫たちの、父親たちの職場を、少しでも知って頂ければ、と思います・・・。

鉱業所玄関です。ご覧のように「安全」の文字が見えます。こういった言葉は全ての炭鉱事務所に共通するものです。はげしい風雨の後のようですね・・・
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炭鉱町に住んだ人々~女性の仕事

炭鉱というと、どうしても強大な地圧とガスの噴出する地底で働いた、屈強の男たちが強調されがちですが、昭和8年に女子の労働が禁止されるまでは、女性も当たり前のように坑内で働いていました。
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男が石炭を掘り、女は掘った石炭を運ぶ・・というケースがほとんどでした。
今でこそ、運搬は男の仕事になっていますが、当時はむしろ女性の仕事であったわけですね。
(下図の女性が左手に持っているのは、坑内を照らす灯、カンテラです)
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下図のように、石炭を船に積み込む桟橋までトロッコを押してゆくのも、やはり女性が多かったようです。
(画像は長崎市・伊王島町)
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また石炭、炭車だけでなく、坑内労働が禁止されてからは、坑木や鉄柱、コンクリート袋などの運搬にも多くの女性が従事しました。
大橋 弘さんの「1972 青春軍艦島」によると、体重40㎏ぐらいの小柄な女性が、70~80㎏の坑木をひょいと担いでいたそうです。今では考えられないことですね。
(画像も同書より引用させていただきました。お勧めの本です)
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炭鉱町に住んだ人々~街の活気

「活気」という言葉の解釈は、人それぞれ違うかもしれません。ある辞書では「その場の人々の心に張りがあり、いきいきとした雰囲気が誰の目にもうかがわれる・・・」とあります。

個人的に解釈するのは、活気とは、「気」のベクトルがいろんな方向に、多く飛び交うこと」ではないかと考えます・・・


画像は昭和34年、佐々町の炭鉱町でのスナップで、「薬売りの犬猫屋さん」とあります。
この薬売りさんは、奇抜な格好と巧みな口上で人を集め、笑いを巻き起こしながらいつの間にか薬を売った。特に炭鉱町は上得意で各地の炭鉱を定期的に巡回していた・・・と説明が付記されています。

人を笑わせ、気分を高めてくれた上に、サラリ・・・と商売をする。このサラリ・・・が大事と思います。今では、こんな粋で、高品質?な商売ができる人は、まったく見ることができなくなってしまったようです。
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今、どんな大都市でも、「活気がある」という表現はされません。人口は多くても、飛び交う「気」のベクトルは限りなく少なく、それも同じ方へとばかり流れていって、ベクトル同士が向き合うことが無いからではないでしょうか・・・
ここ、長崎のような地方であっても、通りを歩く人は皆、無機質な顔をして、或いは端末とイヤホーンで周りと隔絶しながら、ただ流れていっているような感じがします。(画像は筑豊)
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九州では、雪の日は・・・

今日は、ここ長崎も雪に埋もれました。
九州では、年に数日ある雪の日なわけですが、やはり毎年のことですが、チェーンもまかずに車で出かけていくヤカラが多く、交通はマヒしているようです・・・・

画像は雪の日の筑豊の炭鉱町です。
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地上は一面の銀世界で、気温は0℃前後・・・しかし地下1.000mも下の坑底では、気温40~50℃、湿度は95%以上という環境。そこを行ったり来たりしながらの、「通勤」は、身体にどれだけのダメージがあったでしょうか・・・・

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炭鉱町に住んだ人々~夫婦

このトピックで最後に持ってくるのならば、これだと思っていたのが、この「夫婦」というテーマです。所詮、私のブログは一般論の域を出ません。しかし、こうして綴ることには、何らかの意味があると信じてやみません。

軍艦島ツアー・ガイドをしているときに、肝に命じていたことが、ひとつだけありました。
「ツアーのお客さんを楽しませるために、あえてジョークは沢山言う。しかし、根底にある凛としたものは、絶対に外さない」・・・ということです。
お世話になったNPO軍艦島を世界遺産にする会の理事長さんも、ドルフィンに降り立った時には、人知れず端島神社の方に合掌されているのを私は知っていました。
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まず、明治期から昭和初期にかけての時代、「小ヤマ」と呼ばれた中小規模の炭鉱では、このように夫婦がペアで石炭を掘りだしては、運ぶという状況が少なくありませんでした。ツルハシで石炭を掘る夫が先山(さきやま)、スラやしょい篭で石炭を運び出す妻のことを後山(あとやま)と呼びました。
(画像は、長崎県佐世保市世知原町・炭鉱資料館より)
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長崎新聞社の「ニュースで見る長崎50年史」の「炭鉱事故」の項に、次のような言葉が見えます。

・・・九州のヤマをわたり歩いたある元鉱員は「坑内はいつも、地の底で働いている緊張と不安があった」と打ち明ける。その妻は「夜けんかしても、翌朝は必ず笑顔で送りだした」という。・・・・・

この抜粋だけで、炭鉱に関わった夫婦の像というものが、理解していただけると思います。

下画像は、「写真万葉録 筑豊⑦ 六月一日」よりの一枚です。この写真集全巻の中で、もっとも私が胸を打たれたものです。
1965年(昭和40年)6月1日、福岡筑豊・三井山野鉱でガス爆発事故が起き、237人の鉱員が帰らぬ人となりました。写真は、現場に駆けつけた被害者の奥さんをとらえたものです。この一枚を見れば、「炭鉱事故」というものが、そこに身を寄せる夫婦にとって、いかなる「脅威・恐怖」であったかがおわかりだと思います・・・。
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写真とは、残酷なものだと思います。
この方は、その後、どこへ行って、どうされたのでしょう・・・・丁度、うちのお袋と同じくらいの年代ですが、気になります。
勝手に写真を載せてごめんなさい。







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炭鉱町に住んだ人々~職場

たとえ、どんな仕事、職場でも大変でないものはありません。それは大前提です。
私が教師になって初めての3年生の授業。ガラッと教室の扉を開けると、リーゼントをきめた、やんちゃくんが机の上であぐらをかき、私にガンをとばしておりました・・・。まぁそういうのも、大変でしたが、炭鉱という職場はちょっと違います。
本当は、このことを記事にするのは、大変ためらいがあるのですが、炭鉱のことを知る上で、素通りするわけにもいかない・・・と思うので、できるだけシンプルにつづりたいと思います。

まず作業をしている場所です。炭鉱によって深さも構造も様々ですが、最深部では地表から1,000m~1,200mという深さ。坑口から2~3kmはざら、5km以上も遠い現場(最前線を切り羽『きりは』という)もありました。
今、東京都墨田区にスカイツリーという恐ろしく高いタワーが建設中ですが、そのスカイツリーを見る機会がありましたら、その高さの2倍近くの地底まで降りて行ったのが、炭鉱マンたちだと、是非想像してみてください。
切り羽近くの気温は体温より高い40℃。湿度は95%以上です。汗が乾くことはありません。つまり体温は上昇してゆくばかりで、熱中症に似た症状を起こす鉱員も多かったようです。水分と塩分補給は必須でした。
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石炭の層(炭層)の厚みも様々です。層の厚い切り羽では、立ったまま作業ができ、機械掘りも可能ですが、画像のようなわずか40~50cmの厚みしかない炭層では、「寝堀り」と言って、横になったままツルハシで石炭を掘り出します。この姿勢だと10分も作業をすると、体ががたがたになったそうです。                     (画像は長崎県・鹿町坑)
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地下1kmも下の世界を考えてみてください。もし人間が深度1,000mの海中に身を置くと、どうなるでしょう?おそらく「水圧」により体はぺしゃんこになってしまうでしょう。同じく地下にも「地圧」というものがあります。その地圧は1平方メートルあたり60トンという力で押してきます。現代の大型観光バスが1台約20トンあるので、↓この作業員の体の上に、大型観光バス3台分くらいの力で押してきていることになります。それを支えているのは、この松の木の坑木1本だけです。
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さらに悪いことには、優良な炭層の近くというのは、ぜい弱な地層が多かったそうです。上から岩盤が落ちてくることを「落盤」、横からのを「崩落」、下の地層が盛り上がってくることを「盤ぶくれ」と言います。
下の鉱員さんの頭上を見ると、直径30~40cmもある坑木が地圧によりへし折られています。鉄柱であっても、ぐにゃりと曲げられてしまうこともあったそうです。
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さらに・・・炭層というのは、生成過程においてメタンガスを蓄えます。メタンガスは人体には無害ですが、空気中の濃度が10%以上になると自然発火を起こします。石炭を掘る、という行為はメタンガスをどんどん出すという行為でもあったわけです。(バッテリー式のキャップランプが開発されるまでは、カンテラと呼ばれる「火」を灯りにして作業が行われていました。)坑内はもちろん火気厳禁なわけですが、ツルハシや炭車の火花、そして自然発火により大爆発が起こったのです。また、石炭そのものも「燃料」として掘っています。坑内は炭塵(たんじん)と呼ばれる細かい石炭の粉が黒煙のように立ちこめていましたので、一度火災が発生すると、まさに「火に油を注ぐ」という状態になりました。(炭塵は、肺に入ると、塵肺という不治の病を引き起こしました)
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さらにさらに・・・石炭の「炭」は一酸化炭素(CO)の「炭」です。炭層には一酸化炭素がたまっていることがあり、石炭を掘ることは一酸化炭素を蓄積させる危険もはらんでいました。一酸化炭素は無味・無臭で、ヒトが感じとることはできません。しかし、一酸化炭素中毒の症状というのは、その人が「気持ち悪い」と感じた時には、もはや手遅れの事が多く、やがては死に至ります。坑内で火災が発生すると、狭い坑道内には、この一酸化炭素が、あっという間に充満しました。(昭和38年11月9日、午後3:15頃に三井三池炭鉱三川坑で発生したガス爆発では、458人の死者、そして839人ものCO中毒患者を出しました)
CO中毒というのは、強い頭痛、不眠、記憶障害、いらつき等の症状を引き起こし、重度の場合は植物人間状態となってしまう、恐ろしいものです。
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記事を続けるのも辛いですが、さらには、掘進中に地層に溜まっていた地下水が出てきたり、川や海の水が流れ込むという事故もあったようです。
もうこの辺で、やめにします。

軍艦島ガイドをしていた時に、お客さん7~8人と、見学所のベンチに腰掛けて、「もし、このメンバーだけ特別に坑道におりてよい、という許可が出たとしたら、あなたは行くか?」という雑談をしたことがありました。「行く」という人はひとりだったと記憶しています。あとの方は「行か(け)ない」と言っていました。
もし、私だったら・・・・。ただ取材のためだったら、行きたいと思います。でも、働くのは無理だと思います。
その、たった1回行くとしても、前日には家族の顔をしみじみと見ておくだろう・・と思います。

やっぱり、この記事は・・・しんどかったです。




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仕事始め

画像は昭和48年1月4日。三井三池炭鉱、港沖四山坑にて仕事始めの日。初仕事を終え、鏡もちが飾られた坑口より昇坑してきた一番方(am8:00~pm4:00)の鉱員さんたちです。「笑顔」があることで、入坑前ではないことが、すぐにわかります。
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24時間操業の炭鉱も、年末年始は1/1~1/3の特殊休業に前後一日ずつの普通休業日がつけてあるのがわかります。また下の張り紙では、12/29、30、1/5、1/6の勤務に対しては「褒賞」として社の購買会で利用できる物品引換券を出すとあります。仕事始めの日は、誰もが腰が重い・・というせいか、最も高い1,200円の券が出されているようですね。上の画像の鉱員さんの笑顔の素は、「無事に上がれた」という安堵感、プラスちょっぴり高い買い物券のおまけ付き・・・というとこでしょうか。(昭和49年12月、三井港沖四山坑・掲示板)
年末年始休業352

ともあれ、私もこの鉱員さんじゃないですが、「笑顔=笑い」が仕事の中に途絶えることがないよう、この一年の仕事に向かいたいと思うのです。
昨年、軍艦島のガイドをした時、実感したのは、「炭鉱という非常に厳しい現場を説明する上で大切なことのひとつは、前後の案内の中でいかに笑いをつくるか!」ということでした。また、その確信が持てたことは個人的に大きな収穫でした。

炭鉱町に住んだ人々~子育て

本当は深いテーマなので、とても1トピックにはまとめきれないのですが、葦書房刊「写真万葉録・筑豊⑧地ぞこの子」の中にうまく言い表したと思われる文章があるので、紹介したいと思います。
子ども達303

まずこの「子育て」という言葉の響きには、通常「親・養育者・保護者」がイメージとして浮かぶと思うのですが、炭鉱町のそれについては、「町を構成していたコミュニティ」そのものが、それぞれの子どもを育てた・・・という意味が大変重要であることを先に述べておかなければならないと思います。
怪我299

同書の帯には、次のような文字が見えます。
「あすの命も知れない地底の民にとって、唯一の生きる希望と喜びとなったのは、幼い子らであった・・・・(後略)」
ボタ山と運動会309

同書の97頁に「先山(さきやま)の子育て」と題した文章が載っているので、一部紹介します。
『・・・・親たちにとっては子どもだけが財産であり、生き甲斐であった。我が子の健やかな成長だけを楽しみにして、親たちは苛烈な地底の重労働に堪えたのである。
ヤマ(炭鉱)の男たちは、優秀な学業成績をわが子に期待することはなかった。なによりも人に対する思いやりを期待した。彼らがもっとも激しく憎んだのは、利己主義と卑怯であった。もしわが子がそのような言動をとることがあれば、容赦なく制裁を加えた。利己主義と卑怯は炭鉱労働者にとって最大の敵であり、そのような悪徳にむしばまれた子を、後継ぎとして地底にさげることはできないと考えたからである。もしさげれば、誰かが見殺しにされるのだ。
それゆえ、親たちは、わが子を思いやりゆたかな労働者として育てるために全力をそそいだ。早くからさまざまの仕事を手伝わせたのも、わが子に対する、人生の先山としてのおもいやりであった・・・・』
 (原文まま)

*先山(さきやま)=中小の炭鉱では、夫婦で石炭を掘るというケースも少なくなかった。その場合、奥の方で炭層を掘る夫を先山、掘り出した石炭を運び出す作業をする妻を後山(あとやま)という風に呼んだ。単に炭鉱において、先輩である立場を先山、後輩にあたる方を後山という場合もある。
じいちゃんと311

本の帯のことばにあるように、炭鉱ではたらく父親にとっては、一度坑底に下がると必ず安全に地上へ還れるという保証はない・・ということが大きかったのだと思います。それ故、なんでもない一日一日を大切にし、自分の子はもちろん、地域の子も大変かわいがり、かつ悪いことを見聞きすれば、区別無く叱ったわけです。

母親にとってもそれはもちろん同じことでした。しかし、現代と決定的に違うのは、母親たちが育児や子育てに疲れたり、悩んだりした時、また子どもが病気や怪我をしたときなどには、まわりの母親仲間や先輩であるお年寄り達が、それこそ機を逸せず団結して力を貸したので、深刻な状況に追い込まれることがなかった・・・ということです。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
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