アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

炭鉱町に住んだ人々

世界記憶遺産に登録された炭鉱画の作者 ~ 山本作兵衛さんの唸る、「ゴットン節」

世界記憶遺産に登録された炭鉱画の作者・山本作兵衛さんの絵の中に登場する、「ゴットン」という言葉。「なんの意味があるのだろう?」・・と思われた方も多いかと思いますが、この「ゴットン」は「ゴットン節」の中で歌われる、いわば「合いの手」であり、諸説あれど明確な意味は不明のようです。しかしこの「ゴットン」という言葉には不思議な響きを感じます・・・・
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「 ゴットン節 」(福岡県筑豊地区)

様は一番方 私は二番 上がり下がりで逢うばかり  ゴットン
嫌な人繰り邪険の勘場 情け知らずの納屋頭  ゴットン
七つ八つからカンテラ提げて 坑内下がるも親の罰  ゴットン
卸底から吹いてくる風は 様ちゃん恋しと吹いてくる  ゴットン
あんた卸かわしゃ昇り端 ともに会いましょ曲片で  ゴットン
つるはカンコづる先山年季 跡向きゃ照れ造で函なぐれ ゴットン
仕事するときゃ泣きべす顔で 酒を飲むときゃ腕まくり  ゴットン
左三片の金板の上で くらがい拾うたが主ゃないか  ゴットン
親が許して添わせぬなれば 遠賀下りは二人連れ  ゴットン
文句こくならセナ棒でドタマ 晒し木綿が血に染まる  ゴットン
昇り降りの石の目も知らで 先山さんとはシャラおかし  ゴットン
卸ゃ水がつく勘場は堅い 特別切り羽にゃ岩が出た  ゴットン
親の因果が子にまで報い 長い坑道でスラを曳く  ゴットン

・・・この「ゴットン節」も春歌のようですが、「炭鉱節」のような明るさは無く、内容からしても明治から昭和初期までの「圧政ヤマ」の時代を謳ったものであることがうかがえます。

山本作兵衛さん自身が唱う「ゴットン節」がありましたので、紹介します。

隣でおばあちゃんが「フシのちごうとる・・」って言ってますけどね。だいぶ飲んでおられるようなので・・・・

こちらでは肉声のみですが、山本さんの「ゴットン節」を聴くことができます。
西日本新聞社HP・九州歌謡地図~仕事唄の情景「ゴットン節」腹底でつぶやくブルース

世界の記憶として永久に記録される作兵衛さんの炭鉱画にとって、この「ゴットン節」は欠かせないものであり、併せて保存・記憶されるべきものでしょう・・・
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江迎町千灯籠まつりで「炭鉱節」復活!


地元誌の中で見つけたトピック。「これはいいアイディア!」と思いました。
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ちなみに炭鉱節の歌詞・メロディーは・・・・

「炭鉱節」

1.月が出た出た 月が出た
  (ヨイヨイ)
  【家(ウチ)】のお山の 上に出た
  あんまり煙突が高いので
  さぞやお月さん 煙たかろ
  (サノヨイヨイ)

2.一山二山 三山越え
  奥に咲いたる 八重椿
  なんぼ色よく 咲いたとて
  様ちゃんが通わにゃ 仇の花

3.あなたがその気で 云うのなら
  思い切ります 別れます
  元の娘の 十八に
  返してくれたら 別れます

4.お札を枕に 寝るよりも
  月が射し込む あばら家で
  主の腕(かいな)に ほんのりと
  私ゃ抱かれて 暮らしたい

5.竪坑千尺 二千尺
  下りゃ様ちゃんの ツルの音
  ままになるなら あのそばで
  私も掘りたや 黒ダイヤ

・・・・【 】の部分が各地の炭鉱の名前に換えられて歌われることもあるようですね。歌詞は、元・春歌というだけあって、ちょっと微妙な内容ですが、メロディーがカラッとしてるので、そんなことはそうでもいいように思えます。


・・・・福岡県大牟田市で行われているお祭りでの「炭鉱節」の様子。キャップランプ隊なんてあるんですね・・・

江迎でもこれを機に、千灯籠まつりの中で根付いていってくれるといいですね!
千灯籠まつりは今日、明日(2011年8月23日~24日)行われます。まつりが成功しますように・・・・!

「江迎千灯籠まつり」HP
http://sentourou.com/

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池島アパートの一室を見せてもらう

軍艦島ガイドをしていた時、お客さんの中で「少しでいいから、アパートの中を見てみたい」と言われる方がけっこうおられました。
それはただの好奇心からくる、と言うよりは「自分自身が幼い頃生きていた時代を思い出したい」というようなものではなかったかと思います。私自身が初めて軍艦島に来た時も同じような感覚を持ちましたので・・・

都会からツアーに訪れる多くの方が「あの頃は・・・」と懐かしそうに昔を語られます。その時代を思い出すとにより自分自身の「アイデンティティーを再確認する」ということがその方の中で起こっているのでしょう。

以前訪れた池島。元炭鉱マンのガイドさんに案内していただいた時に、展示用となっているアパートの内部を見せてもらいました。自分の住んでいたアパートよりは随分と年代の新しいものでしたが、それでも十分懐かしいものでした。

この棟の4階の一室が当時の家族の暮らしを再現した一室になっています。
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坑口は巨大な地下・炭鉱街への入り口

おそらく炭鉱で働いている時に、坑口から先の世界がどうなっているのか、を詳しく喋り続けた炭鉱マンはいなかっただろう・・と思われます。
そうすることは、やたら家族の不安をかきたて、心配させることになってしまうからです・・・・
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(入坑を見送る奥さんたち。誰もが笑顔の下に、「もしかして、まさか」という心を押し殺していただろうと思います。)




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人は去り、時は流れ・・・ ~ 吉井町に残る炭鉱住宅

炭鉱住宅・・・炭鉱を経営する会社が労働力である鉱員さんたちを集めるために作った社宅で、家賃は無料であるのはもちろん、光熱費なども無料か非常に安いものだったようです。従って、職を求めて各地から集まってきた人がすぐさま入居して働くことができたわけで、それが炭住のひとつの利点だったようです。
写真は佐世保市(旧北松浦郡)吉井町福井免あたりに残っている炭鉱住宅です。閉山後は個人や市町村に払い下げられ、長い年月を経過しているので、市営(町営)住宅だと認識している方も多いようです・・・
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会社としては多くの労働力を集めるために同じデザインの長屋風建築を一度にたくさん作ったわけですが、家賃以外にも魅力的なポイントがこの住宅・住宅街には結果的にたくさんあったようです・・・

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まるで「優秀な?寅さん」のように魅力的だった、にあんちゃん

一度トピックにした安本 末子さんの「にあんちゃん」ですが、その後同書を読み返すに連れ、深まる思いもあり、もう一度書いてみたいと思いました。
下の記事は西日本新聞佐賀版に掲載された「にあんちゃん」特集の一部です。「にあんちゃん」こと、安本高一(やすもと たかいち)さんのことが紹介されています。タイトルは「スターだった、にあんちゃん」となっています。確かに成績優秀で、スポーツも万能、中学校では生徒会長などもしていますが、私はむしろタイトルのように、「まるで寅さんのようにバイタリティーがあり、魅力的な子ども」だった!・・と称したいのです。
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大鶴炭鉱の炭鉱町で育った安本末子さんの日記 「にあんちゃん」

「にあんちゃん」は昭和28年から29年にかけて当時小3~小5だった安本末子さんが書いた日記を書籍化したものです。
安本さんは3歳で母を亡くし、日記を書き始める小学校3年生の時に心臓発作で父親も失っています。
安本さんの両親は当時の朝鮮・全羅南道宝城郡出身でしたが仕事を求めて佐賀県東松浦郡入野村鶴巻にあった肥前炭鉱の臨時工として働いていました。


大きな地図で見る
兄妹は長兄と次兄、長姉と末子さんでした。両親を失った上に、朝鮮人ということで臨時工の職しか無くたちまち生活は困窮しますが、更に石炭不況から長兄が解雇、社宅も立ち退きという困難が兄妹に襲いかかります・・・

「にあんちゃん」とは次兄のことで、著者がそう読んでいたことから本のタイトルとなっています。

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最初はなぜ2つ上の兄がタイトルになったのかと思いましたが、読み終わるととその理由はなんとなくわかるような気がします。
イメージとしてはTVドラマ「ひとつ屋根の下」のちー兄ちゃんと少しダブりますが、この「にあんちゃん」は、本当によく出来たというか、魅力的な人物なのです。

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「 春のにおいをそよ風にのせて、きょうは卒業式の日でした。
『安本高一』という先生の声に、前を見ると、六年生の列の方から、にあんちゃんが、出てこられました。
 にあんちゃんは、とくべつに「努力賞」をもらわれるのです。
出てきたにあんちゃんを見ると、やぶれた洋服です。みんなきれいな洋服を着ているのに、つぎはぎした上下です。ただほかの人と同じところは、髪の毛をつんでいるということだけです。
 にあんちゃんは、校長先生の前に進んで行きました。校長先生は、「努力賞」の文句を、読み始められました。
 いま、にあんちゃんは、どんな気持ちがしているでしょうか。
 村長さんや大鶴の所長さんたちが見ている前に、上も下もつぎ当てだらけの洋服を着て立って、どんな思いがしているでしょうか。私は、悲しい気持ちでいっぱいでした。
 私は、勉強もできませんし、こじきのようなかっこうもしていますから、もしもにあんちゃんがいなかったら、いや、いたとしても、にあんちゃんが勉強できなかったら、この一年も、だれからでも、いじめられたり、にくまれたりして、すごしてきたことでしょう。
 けれども、にあんちゃんが、勉強ができるおかげで、私はだれからも、ばかにされたり、いじめられたりしたことは、いっぺんもなく、いまゆっくりと、四年生を卒業できるのです。
 にあんちゃんは、貧乏にもくじけず、勉強にはげみ、同級生には、ぜったい負けない頭をもっておられます。
 お金があろうと、なかろうと、一日も学校は休まず、家に帰ってからも、2,3時間はかならず、たとえ10時がすぎようと、予習、復習をして寝られ、試験は、たいてい百点ばかりで、82点が最低というような、りっぱな成績を、持って帰ってくるのです。
 私はにあんちゃんのすがたを見ているうちに、なみだで目がかすんで、なにを見る元気もなくなり、となりの人に、もたれるようにしておりました。」
(本文より)

以下、本について思うことを箇条書きにしてみました。

*著者本人が述べていることですが、この日記は出版などのメディアに載せようと思って書いたものではないことが、非常に大きいと思います。

*この日記を、「不況の炭鉱町の悲劇」と読むのは間違いであると思います。むしろ、朝鮮人でひとりの親戚もいなくても、この安本さんのように生活することができたのは、「家賃・光熱費・浴場使用料ただ」という炭鉱町であったからだと思います。

*人員整理、炭住立ち退きはやむを得なかったとしても、日記に登場する友人や教師など、実にあたたかい人がいたことが大きな救いであったと感じます。通常、物語ではお金持ちの娘はえてして貧しい人には冷たくあしらうということがありがちですが、「にあんちゃん」に出てくるお金持ちの女の子は末子さんを誕生会に読んでご馳走したり、泊めたり・・・とあたたかく接してくれています。

*日記には「乞食の親子」「盲目のおばあさん」「言葉の話せない女の子」「感電死した中学生」など、様々な気の毒な人たちが登場しますが、小学生であった著者は、心より同情を寄せ、大人とは違った感性で世の中を見ていたということを教えてくれます。

*時代として「綴り方教育」の盛んだった頃だと思いますが、この日記に向かい合い、表現を引き出すことができた名も無き教師たちが当時血の通った真の教育を実践していたことがわかります。きっと著者以外にも優れた表現をした子どもたちが数え切れないくらいいたことでしょう。

*極貧の状態にあった作者に対し、日記に登場する友だちという友だちが、それぞれにさりげない優しさで助けてくれる場面が随所に出てきます。特に身なりやお金のことで蔑むようなことはいっさいなく、子どもたちの間には差別を憎み、助け合うという質の高い社会が構築されていたことがうかがえました。

*一時は山の中の掘っ立て小屋のような所に住むことを余儀なくされた末子さんと高一さんでしたが、にあんちゃんこと高一さんは、常に逆境をはね返すような楽天的な強さを持っており、今の若い世代に強烈なメッセージを発しているように思えます。このようなプリミティブな楽天性こそが社会の中では非常に貴重なものであると再確認させてくれます。

*テレビやエアコンどころか、住居さえなかった、という境遇にありながら、著者兄妹たちのこの「心の豊かさ」はどこからきたのだろう・・・というのが一番の感想です。そしてそれは現代の大半の子ども達の状態とはまるで正反対に思えることが、何とも痛ましいと思わずにはいられません・・。


著者安本さんが通った入野(いりの)小学校大鶴(おおづる)分校は閉山とともに閉鎖されていますが、現在の唐津市立入野小学校のHPに「にあんちゃん」についての紹介が載せてあります。

平成16年3月に以下のようなコメントを頂きました。当時を知る貴重な内容であると思いましたので、ここに付記させて頂きました。ありがとうございました。

『 私は肥前町高串出身で現在は福岡県に住んでいます!小学校時代に学校でにあんちゃんの映画の上映を見ました。家に帰り母親に話したところにあんちゃんの事を映画ではなく実在の事を知っていて母の実家の隣に下宿していたと聞きました。中学生くらいの小さい子供が住み込で働いていたのが鮮明に覚えているとも言っていました。その当時の高串は漁業が盛んで佐賀県で一番の水揚げ量と言っても過言ではなかったようで母も祖母と一緒に炭鉱の方へ魚を売りに行っていたと聞きました。 』



佐賀県唐津市立入野小学校HP「にあんちゃん」について

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試錐(しすい) ~ 鉱山技師たちの意地

軍艦島の元々の姿は現在の約1/6にすぎない岩礁であったという事実を知った時は、「なぜそうまでして、こんな場所に炭鉱を開いたのか?」と驚いてしまったのですが、それは、それほど特異なこととは言えなかったようです。
「試錐(しすい)」とは、つまりは炭層を探るためのボーリング調査です。地下にどれくらいの炭層があるのか?・・・莫大な経費を要する炭鉱を開こうとする会社にとっては、一番肝心なことであるのは言うまでもありません。
場合によっては、掘り始めて1年経っても炭層に当たらないこともあるし、すぐに着炭しても、やがて断層(炭層がとぎれた場所)に遭遇する・・というような事態もめずらしくはないからです。
「時間とお金をかけても、後にそれを取り返せる採炭が可能な場所であるか?」を見極めるこの「試錐」こそ技師たちが全身全霊をかけて行った作業であるわけです。
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試錐塔を持つ「試錐室」の特徴的な外観

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塔の内部には「試錐鉄桿(てっかん)」が備え付けられています。

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鉄桿の先端には金属を植え込みます。

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地底から採取した岩石を分析します。



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短歌 「ヤマのうた」 ~ 昭和23年 林 司さん

昭和23年に発表された、元・坑内作業員、林 司さんの短歌を紹介いたします。
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手拭をマスクにあててドリル押す岩粉の中に呼吸乱れつつ

延先に発破かけしかば風圧のいたくするどく耳にこたふる

発破かけて浮きたる天磐の下に心せきつつ枠入れており

岩壁を破りて着炭したりしが天磐より大量の水が溢るる

天磐よりしたたる水にかはきたる咽喉を我はうるほしにけり

一面に水ふくみたる天磐よりしばしば今日も小硬落ち来つ

重圧に押されて枠の折るるときいたく鋭きひびきを上げつ


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落盤に鉄管破れてうづまりし硬の中より水は噴き出づ

落盤の下敷になるケーブル線に気を配りつつ硬積み始む

下がり来し空函車(からばこ)いたく濡れており今朝の曇は雨となりけむ

坑内に下がり来し丸太より雪解けながら湯気たちており

はかどりし今日の仕事に喜びて坑口出づれば澄む空が待つ

坑口を出づればみぞれの降る中に暖まり居し身が急に冷ゆる

たやすくはおちぬ炭あかを歎きつつ夕べの湯つぼに我がひたりおり

片腕を切断したる我が友のほがらかなるさまに振舞ふ

夜半に降る驟雨の音に交はりてたまたま聞ゆる捲上機の音

たまきはるいのちをかけし掘進の我の仕事と時に思うも


(硬:ボタ或いはズリ)

林氏について塵肺患者であったという事以外、詳しい情報は何もありませんが、短歌の文字をたどる内に写真とも体験談とも違った「炭鉱の日常」が見えてくるような気がします・・・・・

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漆黒の坑底から ポツンと見える光

宮本常一さんが執筆に参加しているということで、図書館から借りた「日本残酷物語①」(平凡社)は、民俗学の本で、その内容というのは、略奪・飢饉・疫病・間引き・堕胎など、実に気の滅入るものばかりでしたが、この中の1章、「圧政ヤマの女たち」と「坑内に子どもとともに」では、唯一とも言える、あたたかで美しい文章がありましたので、紹介したいと思います・・・

mine916 『・・・時間がわからんもんだから、おおかた20時間  は越えとるもんの。 昼出る時は、2時頃出て、つぎの日の夜明け頃帰りよったの。食われんもんじゃけな。いやでもひどかところへ入るとじゃ。「人は夢の中、わしゃクド(かまど)の前、ほんに3時の笛にくや」
「ままになるならあの煙突に、わしの思いをはかせたい」。けど、もう逃げていくとここはなかけんの。勝たにゃ。そげん思いよった。

 なんがうれしいちゅうてあんた、仕事がすんでからあがるとき、とおく、上んほうに坑口の灯が ぽつんと見えるとたい。のぼっていけば、家の灯が細う見えてなぁ。 子どもに逢える! 子どもに逢える!思ったなぁ。ほんとに、あんた、こげん細う、ぽつんと見上げるようなところに見えるとですばい。もう、うれしくてうれしくて。 』










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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
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