アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

教会・カトリック史跡等

上五島へ~浦上天主堂の被爆煉瓦を使った鯛ノ浦教会

浦上天主堂の被爆遺構が撤去されたのは、いろんな事情があったにせよ、非常に残念なことだったと思うのですが、その時の被爆煉瓦が、この塔に使われていた・・という事実は、最近まで知りませんでした。
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ここ鯛ノ浦のキリシタンたちも、禁教時代には、筆舌に尽くしがたい、はげしい迫害に遭っています。
地元の郷士が刀の試し切りの為に6人もの信徒を斬殺した「鯛ノ浦の六人切り」という事件などは、いかに当時の信者たちが「ヒト以下」に扱われていたか、を今に知らしめています・・・
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上五島へ~頭ヶ島教会

長崎県内、唯一の石造りの教会で、世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」にも登録されています・・・・
そう説明してしまえば、ほんの「ひと言」で終わりですが、この頭ヶ島(かしらがしま)、どこにでもある小島とはちょっとわけが違います・・
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もともとこの五島という離島の属島である頭ヶ島は、本島まで150mという距離にありながら、橋どころか、渡船すらなかったといいます。
幕末まで無人島であった、この島に移り住んだのは、迫害を逃れるために鯛ノ浦から移ってきたカトリック信者たちで、信者らは、この不毛の地において、信仰を支えにきびしい生活に耐えてきました。
その象徴が、この頭ヶ島教会なのです。
昭和57年に上五島空港設置ととも橋が架かり、ようやく地続きとなりましたが、平成18年には就航ゼロとなり、空港は閉鎖されたままとなっています・・・。
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約束の地・・・・上五島・福見教会

ひとつひとつ表情が違うマリア像ですが、ここ福見教会のマリア像は、ひときわ美しい顔だと思いました。青空をバックに・・・というのが映えることもありますが、このなんとも穏やかな美しさは、ちょっと息を飲む?ものがありました。
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訪れた際、教会の傍らに、ひとりのおじいさんがおられ、いろいろと話を聞かせてくれました。かつてはこの教会のすぐ横に児童の養育院があり、修道院とも合わせて、平和で静かなカトリックの里だったそうです。
歴史をたどれば、「五島崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧の際には、信者家族9家族50人が船で海へ脱出し、佐世保市沖の黒島や生月に辿り着いた後、やっとの思いで、元の福見の地へ帰りました。しかしその時には、家財道具を略奪されたばかりか、家すらも無くなっていたそう。それでもこの「約束の地」にとどまり、明治11年に前身となる木造教会を建設しました。
その後、台風による破壊により立て替えを余儀なくされたり、改修を重ねるなどして、現在に至っています。
現在、世界遺産のリスト入りをしている教会群ですが、世界遺産に値するのは、建築物そのものよりも、ひたすら迫害にも屈せず信仰を貫いた人々の精神そのものであるように思います。
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今日はクリスマスイブです。これらの教会にはきっと多くの信者の方々が集まっておられることでしょう。
これはいつか実現させたいことですが、クリスマス前の上五島に一週間ぐらい滞在して、毎晩2つずつくらい教会を巡りたいと思っています。
まったくもって宗教の枠には入れない、邪気まみれの私でも、教会の中にたたずむと、何かに祈りたい・・・という気持ちが起きてくるから不思議です。
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上五島へ~男はつらいよ 寅次郎恋愛塾のロケ地


今回の上五島行きで、ぜひとも訪れたかったのが、昭和60年、夏に公開された映画「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」のロケ地になった場所です。映画が撮影されてから、もうかれこれ25年ぐらいが経っていますが、渥美 清さんが立ち、眺めたその場所にどうしても行きたいと思っていました。
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ポスターにもなっている教会は、丸尾教会です。周りは随分と変わったようですが、教会の白さと海の青さだけは変わっていないようです。この丸尾地区のおこりは、外海地方から迫害を逃れて移り住んできたキリシタンの子孫たちだそうです。
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「寅次郎恋愛塾」は第35作ということで、シリーズの中では後期に属する・・・つまり寅さんにやや勢いがなくなりつつある頃なのですが、この作品は、好きな作品のひとつです。司法試験を目指すガリ勉で、マドンナに惚れている男役の平田 満さんと寅さん(渥美さん)のかけあいが、なんともいい味をだしています。

これは偶然知りあったカトリックのお婆さんがなくなった後、墓穴を掘っているシーンです。
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ここを探すのが、もっとも骨が折れました。撮影が行われたのは、丸尾教会の墓地なのですが、撮影後に同墓地が移転したため、この場所は草が生い茂っており、同じアングルの場所に立つことは不可能でした。
防波堤もその後、増設されているようです。
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この場所のすぐ近くには、丸尾教会の納骨堂があります。
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納骨堂横の墓碑群です。移転したものかどうかまでは、わかりませんでした。
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次に移動したのは、老婆の葬儀が行われた青砂ヶ浦教会です。ここで寅次郎は老婆の孫娘(マドンナ=樋口可南子)と言葉を交わします。
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この場所は今でもほとんど変わっていません。
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青砂ヶ浦教会は、この地区に暮らしてきたキリシタンたちが明治11年に建てた念願の天主堂です。この建物は明治43年に建て替えた3代目のもので、建設にあたっては、信者ひとりひとりが煉瓦を背負って労働奉仕を行い、やっとの思いで完成させたものだそうです。
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同教会の内部です。クリスマスに向けての装飾がしてありました。
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夕日が射す方向のステンドグラスです。何とも言えない輝き、空気感でした。
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祭壇側から見た入り口です。映画では、寅次郎が葬式の途中でそっと出ていきます・・。
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映画のラストで、教会の銀の燭台を盗もうとしたポンシュウ(テキ屋仲間)に対し、「一生、教会の奴隷として使ってやってください!」と寅さんが神父さんに進言しているシーンです。
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さっきまで渥美さんが立っていたかのような思いにかられます。しばらくここからの景色を眺めてから、教会を後にしました・・・。
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東彼杵町~二十六聖人乗船の地

二十六聖人が上陸した時津は、空港行きの船が発着する埠頭があり、学生時代より何度も足を運んだ場所でした。しかし、乗船した東彼杵の地は、一度も行ったことがありませんでした。

第一、時津の場合は埋め立てにより、当時の海岸線はまったく変わってしまっているので、こう言ってはなんですが、まったく何の感慨も感じられません。だから無意識的に、乗船の地である東彼杵の方にも関心が無かった・・・と言っても過言ではありません。

同町の法音寺郷という場所へ取材に行った帰りに、この場所へ行ってみることにしました。

意外や、時津とはまったく異なる景観がそこには、ありました。大袈裟な言い方かもしれませんが、「昨日、26聖人が船に乗った」と聞いても不思議ではないくらい、昔と変わらない(と思わせる)景色が広がっていました・・・。
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近くには、碑と説明版があるのみです。
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413年前という年月が、そう昔ではない・・・という気さえ起きてきます。
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碑の基部に埋め込まれたイラスト板です。
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キリシタン弾圧のきっかけとなったという「サン・フェリペ号事件」というのも。なんとも根拠の薄い事件だと、思わずにはいられません。
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乗船場の近くには、昔から変わらないであろう静かな町並みがあります。
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乗船の地から海とは反対方向を見た図です。この景観も、道や橋がコンクリートになっている以外は、大して変わっていないのだろうと思われます。
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乗船の地近くにあった公営住宅です。景観を邪魔しない造りです。
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長崎の県内を歩けば歩くほど、各地の街(集落)のおこりとカトリックの歴史とは色濃く関わっていることがわかります。
自分の住む長崎市の街も、もとはと言うと、大村藩がイエズス会に寄進したことが始まりですから、言い換えると「ポルトガル人の宣教師、伝道師たちが造った街」ということになります。
そういうことを考えながら、この地を後にしました。

上五島へ~中ノ浦教会

長崎新聞の連載時代に、一個所だけ現地を訪れていない場所。それが上五島でした。端島や高島、池島といった炭鉱の島に魅せられ、その炭鉱とも縁の深かったカトリック教会(炭鉱マンには信者が多かったそうなので)。先日歩いた北松では、炭鉱町は無くなっていても、点在するカトリック教会の場所で、かつての炭鉱集落の位置がわかりました。
ともかく、ここ上五島にゆくことになるのは、必然的なことに思えましたし、実際の上五島は予想をはるかにこえた、いい場所でした。

上陸した奈良尾港というのは、これまでに訪れたことのある、島の玄関港とは、まったく異なる景色があります。港の周りに山がせまり、不思議な感じがします。軍艦島ほどのインパクトはないにせよ、これから島へ入っていく者に対し、妙な胸の高鳴りを覚えさせます。

島のほぼ南端にある奈良尾港から車で走り出すと、まず最初に顔を見せてくれるのは、この中ノ浦教会です。以前、写真で見て、どうしても見たかった教会のひとつですが、小さな入江に面した姿は、想像以上に美しいものでした。その日は、引き潮の為か、手前の水位が少し低かったのは残念でしたが。
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当たり前のことかもしれませんが、教会というのは中に自由に入れる点がすばらしい・・と思います。扉を開ける毎に、それぞれ異なった光と色、そして空気間の世界が広がってきます。中にたたずむ数分間でさえ、自分の精神と肉体が浄化されるような不思議な感覚を味わうことができます。
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敷地内にあるマリア像とルルドです。このマリア像も少しずつ表情が違っており、各教会の像を見比べながら歩くのも、また楽しいものです。
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もともとこの地区の信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンの方達です。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。
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この地、五島へカトリックが根付いていった背景というのは・・・・1797年(寛政九年)に五島藩主である五島盛運が大村藩主に農地開墾の為の移民を依頼したことに始まります。これに対し農地の不足していた大村藩領・外海地方のキリシタンたちがすすんで五島へと渡ったことがあります。
進んで五島へ渡ったもうひとつの理由は、当時の大村藩では、人口増加をおさえるために、長男以外の子どもを間引き(殺すこと)するように強制していたということがあったようです。五島では、そのような嬰児殺しもせずにすみ、キリシタンへの取り締まりもそれほどひどくなかったということから多くのキリシタンたちが移住を希望したそうです。
五島がキリシタンたちにとって住みやすいことの理由のもうひとつは、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダが五島の領主の病気を治すとともに布教活動をしていたからです。単に宗教を広めるだけでなく、孤児やハンセン氏病患者を保護・養育し、病院や保育園・授産施設などの礎を築いていったことが、当時の人々にとって大きな救いであったということは、間違いのないことでしょう・・・。
アルメイダは、現在の長崎市そのものを都市として切り開いていった人物なのですが、どういうわけか。あまり知られていません。
しかし、かれらが行った「ミゼルコルディア(7つの慈悲)」に代表される慈悲・慈愛に満ちた慈善事業は、今でも各地に受け継がれていると信じたいです。
ルイス・デ・アルメイダ

どこかの教会かは忘れましたが、ある教会内においてあった、祈りの文には、次のような文言が見えます・・・

『・・・産声を上げられなかった小さな子どもたち、
いのちの危機に瀕している貧しい人々、
残忍な暴力の犠牲となっている女性や子どもたち、
無関心とゆがんだ愛情ゆえに命をたたれる高齢者や病人たち、
このような人々に母としてのまなざしを注いでください。・・・・』

これからのクリスマス・シーズンに絶対おすすめなのが、↓これです。
もし、同町に住んでいるのならば、毎晩でも行きたいところです。きっとすばらしいでしょう・・・。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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