アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

被爆のこと・遺構・建造物

二本の被爆クス ~ 稲佐小グラウンドと滑石・平宗地区

「被爆クス」と聞くと、山王神社の大クスをまず連想しますが、もちろん長崎市内には多くの被爆木が存在し、その中には何本かのクスの木があります。
長崎市立稲佐小学校のグラウンド隅にも被爆クスがあります。
石段を登ると、そのクスが見えてきます。
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多くの修学旅行生が訪れる城山小学校は被爆校で唯一、廃校が決まっていた

長崎へ修学旅行で訪れた小中学校生たちがフィールド・ワークを行う際、必ず向かうのが、原爆資料館と平和・爆心地公園、そして城山小学校であると思われます。
この坂は、表通りからは裏手にあたるため、修学旅行生たちもあまり通らない「平和坂」です。
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原爆により倒壊、全焼した為、諏訪神社の長坂で青空授業を行った西坂小学校

長崎市立西坂小学校。爆心地より2.1kmの距離にありましたが、木造であった為、管理棟・教室棟とも爆風により倒壊し、その後発生した火災により全焼しました。
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三菱兵器住吉トンネル工場の地肌

今年の初めに記事を書いた 三菱兵器住吉トンネル工場ですが、その記事の中で『・・・ここまで補強?してしまうと、もはや原型をとどめているとは思えず、保存と言えるのか?・・』と書きましたが、長崎市民でもよほどタイミングがよくないと入れない、そのトンネル内に今回入ることができました。
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原爆投下目標となっていた、常盤橋

長崎市の中島川河口付近に架かる「常盤橋」。今は繁華街「浜の町」へいく主要道として多くの人や車が通る場所です。
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1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾の目標地点は、このなんでもない小さな橋でした・・・・
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秋月医師らの遺志を宿す、フランシスコ病院のタイサンボク

フランシスコ病院の裏手、駐車場の側にある1本のタイサンボク(泰山木)。あまり知られることもなく、毎日排気ガスを浴びて可哀相なのですが、この木もまた原爆の生き証人なのです・・・
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いまだに行方の知れない、山王神社一の鳥居

下の写真は被爆直後のものですが、ご覧のように奥の「一本柱鳥居(二の鳥居)」の手前には、山王神社の一の鳥居が、ほぼ原型のままで仁王立ちしています。爆心地近くに立っていたものの、爆風の通り抜けた方向と水平方向であったため、倒壊せずに残りました。
しかし、原爆落下から17年後の昭和37年3月に、運送会社のトラックがこの鳥居にぶつかって倒して後、どこかに撤去して以来、行方が知れない・・というのです。
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被爆直後、救援1号列車が最も爆心地近くまで進んだ場所

原爆が落とされてから2時間半あまり、地獄と化していた浦上の地に国鉄の救援列車第1号(8両編成)が行く手を阻まれて停車したのが、長崎市清水町にある照圓寺(しょうえんじ)付近でした。
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照圓寺の建物は爆風により、敷地にあった海軍(佐世保)警備隊もろとも倒壊し、写真に見える石造りの門柱だけが残りました。
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常清高等実践女学校・被爆レンガ塀は、浦上に咲き続ける教育者の魂

明治期において、多くのキリスト教系の学校が長崎に誕生していますが、その多くは外国人居留地に近かった東山手、南山手を創立の地としたものが多いように思います。しかし常清高等実践女学校は、明治10年フランスより渡日した幼きイエズス会の修道女によって、明治23年「三成女子小学校」の名のもとに浦上の地に創立されました。
その後、明治44年清心女子技芸学校、昭和4年清心女学院、同7年常清女学校、同18年常清高等実践女学校と改称されました。
昭和20年原爆被爆後は同年9月より南山手で授業を再開し、再び浦上に戻っています。
昭和26年に再び長崎信愛女学院と改称されましたが、残念ながら同30年に廃校となっています。
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「幼きイエズス会」創立者 レーヌ・アンティエ(フランス)


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「平和」の名を持つ保育園

長崎・平和公園の東南、浦上天主堂側に階段を降りると、そこは驚くほどひっそりとしています。
小さな橋を渡ると古ぼけた「平和町」のプレートのかかるブロック塀にはかわいらしい絵が・・・・・

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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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