アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

被爆のこと・遺構・建造物

被爆時、時津町の主要な救護所のひとつであった ~ 万行寺

西彼杵郡時津町浜田郷にある万行寺(萬行寺)。
今では静かなこの寺が、原爆・被爆後に瀕死の被爆者たちで埋め尽くされたことを知る人もかなり少なくなったのではないでしょうか。
私がこの寺のことを初めて知ったのは、中学生の時。或る夏の夜にラジオを聴いていると、ドキュメンタリー番組の中でこの寺が紹介され、涙ながらに当時を語る女性のすすり泣く声がずっと胸の奥に焼きついていました。
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被爆した人たちで何とか自分でなんとか動ける人や救助にあたった人たちは、当然爆心から遠い方向、そして病院があった場所へと向かいましたが、長崎医科大学病院や浦上第一病院などの主要病院が壊滅状態となっていたために、その後周囲の時津町や長与町へ向かった人が多かったようです。特に時津町は病院の数が多いということを知る人もいて、多くの被爆者が運ばれました。しかし当然ながら各病院では到底収容しきれず、時津国民学校や青年学校、そしてこの万行寺が臨時救護所となりました。
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原爆により全壊も、職員の必死の作業で資料消失を逃れた ~ 長崎市立西浦上小学校

1945年8月9日の原爆投下により校舎が全壊した主な学校は、私の母校である西浦上小学校、西坂小学校、そして瓊浦中学校などですが、瓊浦中学はともかく、西浦上小や西坂小が「被爆・被災校」として紹介されることはまずありません。
私などは、低学年のうちに転校したとはいえ、西浦上小に在籍していたにも関わらず、同校が全壊した被爆校であることも、慰霊碑が建っていることも耳にすることはありませんでした。不思議なことです。
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何度もこの前を通りながら、一度もこの碑に手を合わせることをしなかったばかりか、この碑が何であるかさえ、しりませんでした。終戦から、たった25年ほどのことです・・・。(今は、まったくそんなことはないことは、供えてある千羽鶴からもわかります。また後の卒業生の方からは、『毎年慰霊祭を行っていた』という証言を寄せて頂きました。私の在学していた時代は、一学年が7~8クラスもあったので、もちろん全校児童での慰霊祭は不可能だったでしょうから、おそらく高学年の代表児童と先生方で行っておられたことと思います)
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長崎医科大学・角尾学長らの終焉の地であった~長崎市滑石・太神宮救護所

長崎市北部に横たわる滑石(なめし)地区にある太神宮は、その名の割りにこじんまりとした神社なのですが、住人にとっては初詣など馴染みのある場所です。
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これは昭和19年に鳥居脇の灯篭あたりで撮られた写真。学徒出陣する仲間を見送る記念として撮られたもののようです。この地区にとっての中心であったことが伺えます。
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長崎市民にとって、川は鎮魂の場所 ~ 浦上川一帯


近世までは白魚漁なども行われる湿地帯であった浦上川流域。近代になってからは埋め立てを進めながら市街地として発展してきた場所でしたが、1945年8月9日の原子爆弾投下によって同河川は、全身を焼かれた重篤な被災者たちが水を求めて集まり、そのまま死亡した亡骸で埋めつくされました。
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1万とも2万とも言われる亡骸は、そのまま河床や河川敷に放置され、少なくとも被爆後一年間くらいは、そのままであったといいます。
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全身を焼かれた人も、そうでなかった人も灼熱の大地にあって水は文字通り「命の水」でしたが、放射能によって汚染された水を飲むことは、当時の人々が知る由もない「内部被爆」を引き起こしました。せっかく即死を逃れた人であっても、この内部被爆によって命を落とした人も少なくありませんでした。
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長崎市民にとって、川は鎮魂の場所 ~ 下の川橋付近

夏が近づくにつれ、多くの観光客や修学旅行生たちが訪れる「原爆落下中心地公園」。そこから目と鼻の先にある下の川橋のたもとに被爆の惨状を伝える案内板が立っています。しかし、幅の広い国道を隔てた反対側にあたるために、ほとんど訪れる人もありません。
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案内板の中の写真は、被爆直後にこの地で撮影されたもので、何とも痛ましい被害の様子が写し出されています。
溝の中には多くのご遺体が写っているので、白いスクリーンを被せています。
慎みまして亡くなった方々に対し哀悼の意を表します。
JR(国鉄)線と路面電車の軌道の交わっていたこの場所において、走行中であった路面電車が木っ端微塵に破壊され、乗車中であった人々は溝の中に飛ばされています。ほぼ爆心地であったためか、柱がなぎ倒されず直立したまま残っています。
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写真に撮られた場所は、軌道の移動や道路、河川の改修によって大きく変わってしまっています。もはや当時と変わらぬものは、下の川の流れだけかもしれません。
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戦争とは何だったのか ~ 一被爆女性の手記より兵隊とは何だったかを考える

「数日間、もう死んでもいいと何度か思った。生きる力をくれたのは家族、そして20歳代のひとりの兵隊さん。帽子には「ヤナギサワ」と縫ってあった。」・・・から始まる吉野さんの被爆手記。

戦争とは何か・・・
そして人間とは何かを今の世に問いかけているように思えます。
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柳沢さんが吉野さんに覆いかぶさり身を挺して守ってくれたという、かつての長与駅。
今ではその片鱗すらも無い駅舎となってしまっています。
被爆者救援列車が発着した、その駅に何らかの表示・展示があるかと思い訪れてみましたが、無駄なことでした。
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ひとりの兵隊、柳沢氏。柳沢という苗字は北関東に住んでいた時に多く目にした苗字ではありますが、今となってはどこの誰とも生存しているかすらもわかりません。
もちろん吉野さんの手記を読むことも無く、声をかけたことさえ忘れてしまっていることを予想すると、なんとも虚しい気持ちが込み上げてくるのです・・・。

「生きる力」をくれたのも、ヒトの言葉ならば、「私の願い」の中に書かれている様に、一番辛い思いをさせるのもヒトの言葉・・・
「平和」も「戦争」も、間違いなくヒトの心の中から生まれてきたものなのですね。


「被爆のこと・遺構・建造物」 記事一覧





*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月



戦争とは何だったのか ~ NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」

2011年10月29日(土)に放送されたNHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」をできるだけそのままダイジェストにまとめたいと思います。
原爆投下についてのドキュメンタリー番組であった同番組を通して「戦争とは何だったのか」について、あらためて考えてみたいと思いました。

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戦争とは何だったのか ~ 小長井町海岸にB-29墜落

諫早市(旧北高来郡)小長井町小川原浦(おがわはらうら)。有明海に臨む、のどかな海岸近くに、ひとつの碑が立っています。
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すぐ傍には小長井小学校があり、この場所には子ども達のにぎやかな声が響いています。
この碑は、戦時中の昭和19年11月21日、ここから約500m離れた海中に墜落したB-29搭乗員の霊を慰めるために立てられたものです。
画像に見える花は少ししおれていますが、しおれているということは、生花が最近手向けられた、ということでもあります。
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碑には、当時の出来事を綴った作文がこう刻まれています・・・・・

『 わたしたちは やたらにわめき走りまくった

いっときもしゃべらずにはいられなかった

どんなにみごとに命中したか 
銀の翼がどんなに輝いたか

いかに ゆっくり 落ちていったか

尾根を越え 部落を越えて 走ったのだ

みんなの証言は どこかすこしづつ違っていたが

だれのことばも だれの言うことも みんな信じられたのだ

尾翼だけが海面に突っ立っていた

トラックの上には すでに 引揚げられた飛行士がころがしてあった

どよめく群集に向って 髪の毛をつかみ ぐいとあげられたその顔は

桜色の 少年のおもかげをもっていた

はじめて鬼畜をみた やすらかな ねむりの 姿勢だった

その頬に消防団員の平手がとんだ

 

わたしは少年飛行士となるはずだった 
異郷の地に華と散るはずだった

わたしは わたしのまぶたが ぬれるようにかんじられた 』

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被爆後、救護所となった時津国民学校は豊かな流れのほとりにあった

時津港に近い時津川のほとりに建つ時津町立図書館と時津保育園。
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そこはかつて、時津村立時津国民学校と高等実業青年国民学校が建っていた場所でした。
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1945年8月9日11時2分に原子爆弾が投下された時は、爆心地から6km以上離れているにも関わらず、かなりの爆風がここにも達しています。



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我々にとってのジャングル・ジムだった ~ 瓊浦中学・被爆給水タンク

長崎原爆資料館に展示されている、この鉄製の給水タンクは、原爆の熱線により、まるで飴のように鉄骨が曲がってしまっています。
この給水塔は、旧長崎県立瓊浦中学校(現在、長崎市にある瓊浦高等学校とはまったく別)にあったものです。
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今でこそ、このように屋内に展示してありますが、この被爆鉄塔は、長い間、爆心地公園の一角に置かれていたものであり、何の案内板も柵なども無かったので、我々にとってはそれこそ「ジャングルジム」のようなもので、よく鉄骨に登って(その頃は倒してあった)遊んでいたものです。それで、別に大人から怒られるというようなこともありませんでした。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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