アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

音楽

 ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」は、夢と現実を知る少年期から青年期を描いた名作

カナダ出身のアーティスト、ジョニ・ミッチェルが作った「Both sides, now」は切なくも美しいメロディーで、学生時代から好きな楽曲のひとつでした。
歌詞の内容についてはこれまで深く考えようとも思わなかったのですが、現代の世界の状況やその中に置かれた子ども達、若者のことを考えるようになってから、この邦題「青春の光と影」という楽曲が気にかかるようになり、内容をつぶさに調べてみようと思いました。

やたら韻を踏んでいるのと、やや感覚っぽい内容である為に、直訳することの難しい歌詞だと思ったのですが、私の個人的な解釈として、標題のように『 理想と現実を知る少年期から青年期の心情を描いた楽曲 』として訳詞を考えてみました。
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(*本記事に使用している画像は全て著作権フリーのもので、内容とは直接関係がありません。)

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こういう音楽の先生に習いたかった ~ シンガーとしての齋藤眞理(天地真理)さん

いつ削除されるか、わかりませんが、下に動画を貼り付けているので、まずはイメージを取り払ってその歌声を聴いて欲しいと思います。

「言葉を置きにいく」・・・とでも言うのでしょうか。非常にクリアーな言葉が、すっと心に染み入ってくるような気がします。「この広い野原いっぱい」が作曲:森山良子さん、歌;天地真理さんと知らずとも、この声で「日本の名曲」としてアーカイブして欲しい、と思うのはひいき目と個人的な感傷なのでしょうか?




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齋藤眞理さんは昭和26年、埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。2歳の頃、両親が離婚し、母親に引き取られ、母ひとり子ひとりで育っています。昭和26年の大宮市。同市は戦時中、大規模な空襲は受けなかったこともあり、甚大な被害を受けた東京に代わり、経済・交通の要衝として栄えています。そんな中で離婚に至ったのは、何らかの理由があったのでしょうが、戦後の復興期で「生き馬の目を抜く」といった時代に、女手ひとつで子どもを育てたということは、想像を超える苦労があったことでしょう。
眞理さんの母親は、保育園の調理師として眞理さんと共に住み込みで働いていたといいます。保育園と言えば、父親や祖父母、兄弟姉妹など、行事ごとに楽しそうな家族の姿を目にすることも多かったと思いますが、眞理さんの前で母親は、そんな寂しさを感じさせないくらい明るく振舞っていたであろうということは、いつも笑っている眞理さんのポートレートからも予測がつきます。
そして母親は小2の時、眞理さんの為にピアノを買い、それからピアノの練習を始めた眞理さんは私立である国立音大付属中学校のピアノ科に入学しています。その後国立音大付属高校に進学した彼女は、途中から声楽科に転科し、声楽を学んでいます。

高校時代に影響を受けたというのがアメリカのフォーク・シンガー、ジョーン・バエズだそうです。ジョーン・バエズはメキシコ系のアメリカ人。黒髪の地味なルックスにアコースティック・ギター1本で歌うというスタイルで、社会の不正や差別、反戦などを訴えた「プロテスト・ソング」シンガーの代表的な人物の一人でもあります。
現在、こういうことを公然と表現するアーティストは日本では殆ど見当たらないし、いたとしてもメディアには露出されないと思いますが、眞理さんが国立音大付中に入学した1960年代初頭は、アメリカで人種差別撤廃を求めた「公民権運動」が最高潮となる時で、ボブ・ディランウディ・ガスリーピート・シーガーなど多くのアーティストが注目されていました。(1963年にキング牧師の呼びかけによりワシントンDCで行われたワシントン大行進では、バエズやボブ・ディラン、チャールトン・ヘストンらのアーティスト・俳優等を含む20万人が参加し、世界中に大きな影響を与えています。この時キング牧師が行った演説が有名な「I have a dream」です。)
着飾らず質素ないでたち、アコースティック・ギター1本で歌うバエズの姿は、眞理さんの心に深く刻まれたことでしょう。
下の動画の中で、バエズは聴衆の前にギター1本でのぞみ、聴衆とハモっています。(バエズが下のメロディーですね)


アルバイトしながら授業料を捻出し、「齋藤 マリ」の名でヤマハ・ポピュラー・コンテストにチャレンジしたこともあったという眞理さん。スター「天地 真理」にならなければ、音楽科の教師をしながらシンガーという道を歩んだのではないでしょうか。

しかし、今日私たちが彼女の歌声に出会うことができたのは、2012年11月15日現在、5日前に亡くなられた、女優・森 光子さんという存在があったからなのですね。
デビュー後、眞理さんは「天地 真理」として活動をスタートし、TBSの人気ドラマ「時間ですよ」の中の従業員役に応募するも、最終選考で落選となってしまいます。しかし、主役であり選考委員として参加していた森さんが眞理さんの不合格を惜しみ、それまでの台本にない急ごしらえの新登場人物として出演させることを制作サイドに提案したことにより、眞理さんは番組の中で人気が出て、一躍脚光を浴びることとなります。

「ピアノの先生として将来、生計を立てられるように」との思いで、ピアノを買い与え、我が子の幸せを願った実の母親も苦労続きの中で亡くなり、自分に実の娘のように接してくれ、芸能界の中で育ててくれた人もまた亡くしてしまった眞理さんですが、最近では「子守唄 母の愛」を作曲するなど、ずっと音楽活動を続けておられます。
自分が受け取った愛情を、実の娘さんだけでなく、多くの方に届けようとされている姿勢は、すばらしいですね。

このような音楽の先生がいて、どこか広い場所でギター1本で一緒に歌ってくれる・・・こんな出会いがあったとしたら、生涯忘れることは、ないでしょうね・・。

クリアー&メロウなGeorge Bensonの「Nothing gonna・・」は、黒煙に覆われたピッツバーグの下町から生まれた


ビリー・ジョエルやリアン・ライムスなどクリアーな英語を使うアーティストの楽曲には心惹かれるのですが、ジョージ・ベンソンの「Nothing gonna change my love for you」(Gerry Goffin&Michael Masser作)もそんな楽曲のひとつです。

初めて聴いた印象は「これだけ発音がクリアーなのは、白人の正統派シンガーだな・・」というものでしたが、あとになってそのイメージはまったくもって見当違いであったことがわかりました。

ジョージ・ベンソンは1943年、ペンシルバニア州ピッツバーグ・ヒル地区(hill district)に生まれ育ったアフリカ系のアメリカ人です。
ピッツバーグと言えば、鉄鋼王カーネギーに象徴されるように、「鉄鋼の街」であり、1857年頃(日本では黒船の来航した幕末頃)には1000以上の鉄鋼工場が建ち並び、その生産を支える為の労働者が大量に移入しました。
しかし、労働者のおかれた環境は劣悪であったと言います。
大量に燃やされる石炭によって大気は黒煙に覆われ、スモッグにかすんだピッツバーグは「hell with the lid off(恐ろしいもののありったけを見せられた地獄)」と呼ばれました。
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ジョージが生まれたヒル地区は住人の大半がアフリカ系アメリカ人で(白人は人口の約6%を占めるのみ)、住人の約40%は貧困以下のレベル生活を余儀なくされていました。
6人きょうだいの一番上で、病院における賄い仕事で生計を立てていた母親に育てられていたジョージの家には7歳の頃まで電気がありませんでした。
またかつて「アメリカの約1/2の鉄鋼を生産していた」と言われたピッツバーグも第二次大戦後、安価な輸入鉄鋼に押され、鉄鋼業は衰退、街には大量の失業者が溢れ、人口も激減しました。
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しかし、移入者たちが集まった街、ピッツバーグはあたたかく明朗な街であり、裕福でなくとも人々はジャズなどの音楽を楽しむ風習がありました。
ジョージの継父トーマス・コリアーはジョージのために自身のエレキギターを質屋から出したり、ゴミ箱に捨ててあった壊れたウクレレを修理しては、弾き方を教えたりしています。
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ジョージは新聞販売の合間にそのウクレレを持っては、街角で歌い、ひと晩で母親の一週間分のお金を稼ぐようになりました。
つまりジョージに才能があったことも確かですが、街には音楽を愛する少年をあたたかく育てる気風に満ちていた、ということもまちがいないようです。

こうしてジョージのキャリアはスタートし、現在に至っています。
クリアーでメロウな美声の基は、ピッツバーグの下町で育まれたわけです。
こうして考えてみると、「豊かさ」や「文化水準」とは何だろうか、と考えてしまいます。

現在のピッツバーグは芸術も盛んで、大学に通う若者の溢れる文化的な街となっています。




If I had to live my life without you near me
The days would all be empty
The nights would seem so long
With you I see forever oh, so clearly
I might have been in love before
But it never felt this strong

Our dreams are young and we both know
They'll take us where we want to go
Hold me now, touch me now
I don't want to live without you.

Chorus 1
Nothing's gonna change my love for you
You oughta know by now how much I love you
One thing you can be sure of
I'll never ask for more than your love.

Chorus 2
Nothing's gonna change my love for you
You ought to know by now how much I love you
The world may change my whole life through but nothing's gonna change my
love for you.

If the road ahead is not so easy
Our love will lead the way for us like a guiding star
I'll be there for you if you should need me
You don't have to change a thing
I love you just the way you are.

So come with me and share this view
I'll help you see forever too
Hold me now, touch me now
I don't want to live without you.

Chorus 1, Chorus2, and Chorus 1 again

映画「幸福の黄色いハンカチ」とポップス「幸せの黄色いリボン」は同じルーツ

表題の件はかなりメジャーなトピックかもしれませんが、両者ともかなり年代的に古くなってきましたので、掘り起こすという意味も兼ねて取り上げてみました。

まず1973年に大ヒットしたトニー・オーランド&ドーンの「幸せの黄色いリボン:(原題Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree)は、英語もわからない時代に、ラジオから流れてきた軽快な曲として耳にしていました。
しかし、その歌詞の内容というのは、軽快なリズムとは裏腹で、動画に流れる通り、刑務所を出所した男の心理を追ったものです・・・

以前取り上げたサイモンとガーファンクルの「水曜の朝、午前3時」もそうでしたが、犯した罪を悔やむ心理と愛憎というのは、非常に人間的に深いものを表現できる題材であると感じます・・・




一方、映画「幸せの黄色いハンカチ」は、ハンカチとリボンという違いはあるものの、ほぼ基本的なストーリーは同じ、ということで、私は長い間この映画は楽曲の方をヒントにして作ったものだ、という誤解をしておりました。

しかし、あらためて映画のポスターを見ると「原作:ピート・ハミル」とあります。
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これについてですが、ジャーナリストで小説家であったピート・ハミルは、「幸せの黄色いリボン」の歌詞は、伝承を元に自分が1971年(楽曲ヒットの前年)に執筆したコラム「Going Home」に基づいたものだとしてオーランド側を提訴したらしいのですが、結局被告オーランド側の調査で、ハミル以前にもこの伝承をまとめた文献があることが示され、訴訟は取り下げられた・・・とひともんちゃく?があったらしいのですね・・・。
どういう経緯かわかりませんが、映画サイド(1977年公開)では「ピート・ハミル原作」としたようです。また提訴されると面倒だ!とでも思ったのかもしれませんが・・・・?
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私としては、監督が「男はつらいよ」の山田洋次氏であり、主役の高倉 健さんと重要な役である武田 鉄矢さんが、ともに九州出身という設定で、ストーリーがかつての炭鉱町・夕張に向かうというだけで、大いに魅力のある映画なのですが・・・


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奈留高校・幻の校歌、荒井由実さんの「瞳を閉じて」

松任谷(荒井)由実の名曲「瞳を閉じて」は、長崎県立奈留(なる)高等学校の為に松任谷さんが作った「幻の校歌」でした。
それはまだ同校が長崎県立五島高等学校奈留分校だった時代の昭和49年、当時の生徒であった藤原あつみさんが、荒井さんのラジオ番組に「オリジナルの校歌がない、私の学校に校歌をつくってほしい」というハガキを送ったことがきっかけでした。
普通に考えれば、「まぁ気持ちはわかるけど、学校の意向もあるからね・・」で立ち消えとなるはずと思うのですが、そうならなかったところに、ロマン(古い表現ですが)を感じますね。51年に正式に独立し、奈留高校となったのですが、残念ながら校歌としては採用されず、「愛唱歌」というポジションにあるそうです。
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63年に同校に設置された松任谷さん直筆の書を彫り込んだ「瞳を閉じて」の碑です。「愛唱歌」というポジションはどうか、という議論はもういいとして歌詞を読んでみると、あらためてその秀逸さが伝わってきます。hitomi

  1. 風がやんだら 沖まで船を出そう
    手紙を入れた ガラスびんをもって
    遠いところへ行った友達に
    潮騒の音がもう一度届くように
    今 海に流そう
     
  2. 霧が晴れたら 小高い丘に立とう
    名もない島が 見えるかもしれない
    小さな子供にたずねられたら
    海の碧さをもう一度伝えるために
    今 瞳を閉じて
    今 瞳を閉じて
1番は奈留島という小さな島にいて、本土へ渡っていった友だちを思う気持ち、
2番は本土から、昔暮らした奈留島の友だちを思う・・・・という、シンプルながらとても情景あふれるものとなっています。

この歌が出来た頃、今のような「急激な過疎・少子化」が進行しているだろうとは誰も予測出来なかっただろうと思うのですが、この「瞳を閉じて」はそのことを静かに見通していたかのようであり、さらに「大切なもの」を贈り物として包んでいたのだ・・と思わずにはいられません。

(画像は上下2枚とも県誌より。下は小学校前にある島唯一の、教育のための信号機)
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就職や進学で卒業生が島を出ていく時には、港で「蛍の光」とともに流されるのだというこの「瞳を閉じて」。彼らはどういう思いでこの曲を聴いたのでしょうか・・・





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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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