アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

対州馬

対州馬の飼養と調教 4「 馬を飼うのに届は必要か 」

必要である。大型動物なので。
たまに体の小さなポニーやミニチュア・ホースは届けが必要でないと思っている人がいるが、そうではない。馬は馬なので、やはり所属している行政への届け出、登録が必要となる。
私の場合は、①長崎市環境課(正確な課名は忘れたが、馬の排せつ物が場合によっては産業廃棄物扱いとなるため、環境を司る行政課への確認が必要)と長崎県の②家畜保健所への登録を行った。
①は、()書きの通り、馬の飼育が生業とするものか、或いはペットとして飼育するかによって排せつ物の扱いが変わってくる。要は前者の場合、産廃で、後者の場合はそうではない。
また飼育する場所が建築法によって厩舎の建てられる場所か否かによっても、許可の有無に影響する。
私の場合は放牧飼育による飼育で、厩舎は無く(法律上建てられない)雨避けのテントがあるという設定・説明で許可をもらった。
建築法で言う「建物」とは、柱が立っていて屋根があれば、十分建物になるのだが、私は単管パイプにトラックシートを壁せているからテントという扱いで許可をもらった。
もし厩舎を建てるとしたら、或いは生業として馬を飼うとしたら、浄化槽などの設置義務などが生じてくることになるので、まず事前によく法律を確認しておくこと。
また②については、やはり伝染病被害のこともあるので、かならず登録しなければならない。けっこう無登録・未許可で馬を飼う輩もいるが、そういう者が馬を飼養することは馬にとっても社会にとっても大変な迷惑としか言えない。
長崎の場合は年に1回の書類提出で済む。


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対州馬の飼養と調教 3「 馬を飼うとはどういうものか 」

よろこびである。それ以外はない。
馬を好きな者にとって毎日馬と会えることはただ喜びであり、それ以外はないのである。
以前、長崎市で馬搬を生業としていた方に頻繁に会っていたことがある。その方は馬搬をやめた後、馬をどこかの乗馬クラブに譲ったらしい。そして私にこう述べた。「もう馬は見たくない」と。馬と関わった年数や内容は関係ない。その方は生業として馬搬を親から受け継いだだけであって、馬のことが元から好きではなかったということである。
よく訪問者から「(馬を飼うのは)大変でしょう?」と言われる。「いや、馬が好きな者は、馬と居たいのだから、大変じゃない」と答えると必ず期待が外れたような顔をされる。おそらくそのすれ違いは永遠に解消されないだろう。
しかし馬を飼養する者の中には非情な者もいて、必要がなくなると、と殺場に送る者もいる。しかしこの問題については牛との兼ね合いもあるし、論点がそれてしまう恐れがあるので、ここでは述べない。
今回馬を飼養した期間は概ね3年半。朝夕必ず餌をやり手入れや世話をするので、ざっと1,200回以上馬と顔を合わせ、触れてきたことになる。もちろん元旦もクリスマスも嵐の日も大雪の日もだ。
最初の2年間は片道25分くらいかかる山中で飼養していたので、往復に1時間。世話に朝20分、夕方1時間をかけるので、1日24時間のうち3時間から3時間半を馬と過ごしたことになる。では、その最初の2年間は大変だったかと言うと、正直大変だったという記憶はない。むしろ遠くにいる分、あまり相手にしてやれなくて寂しい思いをさせたなと申し訳なく思う。帰省などでやむを得ない時は友人や馬好きの知り合いに頼んだが、それはほんの数日である。こうして数字で表してみると結構なものだと思うが、なぜ大変だったという思いが無いかは、実のところ自分でもよくわからない。ただ馬が好きだったから、馬と居る時間も大好きで、むしろ自分の24時間の中でその馬といる時間はとても大切なものだっとしか言いようがないのである。特に日本語学校の校長として勤務していた時期は、大変にストレスがたまった(生徒ではなく、職員で)ので、静かに餌を食べているのを黙ってみている時間は、そのストレスを沈めてくれる本当にありがたい時間だった。うそだと思うのであれば、ぜひ馬を飼ってみてほしい。ただし、本当に馬を好きでないのならばやめた方がいい。
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対州馬の飼養と調教 2「 疝痛(せんつう) 」

「 疝痛(せんつう) 」

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「疝痛」。・・・馬を飼養するものにとって、この言葉ほど恐ろしいものはない。
現に私の大切な馬も、これによって「ある日突然」命を奪われてしまったのだ。
正直に言うと、この記事を書くことですら非常に苦痛を伴う。
馬を所有する喜びのすぐ裏側で、常にこの疝痛という恐怖と向き合っていくことになる。
そして、旅行に行く朝や大事な行事のある朝も、この疝痛という恐れを何日も前から保持することになる。これは、個人で飼養する以上、最も苦痛なことである。よく他人から「馬を飼うのは、大変でしょう?」と言われる。その言葉はまったく持って余計な言葉で面倒くさい言葉なのだが、一応邪険にするのもなんなので、「いや、馬が好きだから毎日馬と関われる時間は楽しいのだ。馬好きとはそういうものなのだ」と返す。
実際、馬が寄ってくる表情を見たり、餌を食べている姿を見るのは一般の人にはわからないだろうが、至福の時なのである。つまり私は馬のおかげで毎日至福の時をもらっていたのだ。だから馬の世話をする時間が一日の中から無くなってしまった時は、楽などではなく、とても辛い時間帯になってしまった。一日全体が空虚なものになってしまっていた。
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対州馬の飼養と調教 1

超絶滅危惧種である対州馬の保存と繁栄を願い記事を作成・投稿します。記事内で使用する画像はほとんどがオリジナルですが、馬のことを広く知って頂くために敢えてキャプチャーの画像も含まれることをあらかじめお断りしておきます。

序章

日本在来馬8種の1種で対馬原産の対州馬は、2019年8月現在、すでに「絶滅中」とでも形容できるような状態である。これには種々の理由が存在するが、非常に混み入ってしまうので、この場では割愛する。
馬についての説明は非常に退屈なものであるし、他にも多く述べられてるので、はじめにいかにして私が対州馬を飼いたいと思い、それを実践していったかをなるべく時系列に沿って述べていきたい。

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「なぜ 対州馬を飼いたいと思うようになったか」

1963年(昭和38年)に長崎市で出生し生まれ育った私だが、対州馬に興味を持ったのは恐ろしく後にあってからである。
いや、正確に言うと「馬」そのものにも特に興味はなく、「対州馬が好きになったから、馬を好きになった」ということである。
だから多くの乗馬をされる方、馬好きな方とは最終的な価値基準は一致することが多いが、多少の違和感はどうしてもぬぐい切れない場合もある。だから、競馬ファンとは根本的な馬に対する価値観が違うと言っても過言ではない。
私の場合、ベースにあるのは郷土長崎の戦後復興の一役を担った不思議な因縁のある馬というものなのである。

対州馬との運命的な出会いは、仕事がきっかけで訪れた大村市のカフェであった。
そこにいた牝の対州馬は馬というより、むしろ犬に近いような感じであった。
それまで目にしてきた馬たちというのは、近寄っていっても、そのまま草をはんでいるか、何も反応しないというイメージが強かった。
しかしその馬は明らかにこちらに興味を持ち、ずっとこちらを伺いながらもじもじしている。しばらくして名前を呼んでみると、もじもじしながらも少しずつ近寄ってきた。そしてその後はべったりと甘えて私の洋服をはぐはぐしたり、といった感じ。すっかりその愛らしさにやられてしまった。こうして、私と対州馬との決定的な「縁」が出来上がった。
『対州馬は長崎市に気の遠くなるほど存在する坂段や狭いスロープを荷物を背負って働いていた馬』。
そこから私の対州馬に対する熱烈な思いはつのる一方で、ついには飼養することになる。

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三井三池炭坑では、坑内馬として対州馬が非常にむごい使われ方をした

昭和初期頃まで、各炭坑の坑道内で使われていたという「坑内馬」。その坑内馬に関する記録はほとんど存在しないのですが、北部九州に炭田が分布していたことと、馬の体格と気質、能力を考えると、対馬産の対州馬が使われないはずは無いとずっと思っていました。

そしてその悪い予感は残念ながら一冊の本、「坑内馬と馬夫と女坑夫」 武松輝男著 創思社出版によって証明されたばかりではなく、その実態たるや身の毛もよだつような残虐かつ悲惨なものであったということが明らかになりました。
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『 坑内馬ネー、私はそのときはまだ小さかったんで詳しいことはわからんが、対州馬、対馬の馬ですたいな、それと島原馬を取り扱っていたことは知っとります。背の高さは五寸五寸と言っとりました。四尺五寸のことで、今の寸法で136センチぐらいですたいな。こまぁか馬でしたバイ・・・・ 』
 
これは祖父が坑内馬の売買を生業にしていたという方の証言です。大資本の三井三池炭坑では、昭和の初め頃まで、坑内の石炭運搬に対州馬と島原馬(現在は絶滅)が使われていたということです。

証言には「島原馬」ともありますが、島原馬は馬車などを曳く、割と大きな馬だったと聞いたことがあるので、天井が低く、勾配がある足場の悪い坑内作業を考えると、やはり対州馬が主に使われたのではないでしょうか。


「粗食に耐え、小柄の割に力が強く、性格は温厚で従順」この特質が炭坑にとってはうってつけだったということですね。

何千(或いは何万?)という馬たちは、馬たちは一度坑内に下げられると、二度と地上に上げられることはなく、気温40℃、湿度95%、ガスや細菌の蔓延する、昼も夜もない、季節もない暗闇の中で平均2年あまりという短い年月で、弱り果て、苦しんで苦しみ抜いて死んでいっています。

作業中の状況たるや、悲惨なもので、同書内の表現を借りると、以下のようなものとなります。

『 一頭の馬が一回に運ぶ距離は、片道で307m、これを炭函(車)を曳いて28分費やしている。 10mの距離を1分もかかる。坑内というところは底盤は殆ど岩盤で、しかも凹凸があって平坦な道筋ではない。レールにしても、いま私たちの目の前にあるようなあの頑丈なものでもない。炭車の車輪もベアリングの車軸ではない。 坑道の要所要所に設けられた燈火にしても、今のような昼光色ではない。そういう軌道上を、背丈の低い矮小馬が重たい炭函を、10mを1分も費やしてあえぎあえぎ曳いた。 』

『 坑内はですな。ひらったか道ばかりじゃなか。上がり坂もあるが、下り坂もありますタイ。 上り坂を馬に曳かせて上る時には”ソラー!”チ、馬に気合いバ入れんといかん。 そんとき、手で馬の尻を叩こうもんなら、馬も人も汗ビッショリになっとるもんで、汗が飛び散ってワタシン顔にかかっとデス。そいけん私は竹ヒゴ持っといて、それで馬ン尻バ叩こりました。 馬ン口には白かねばっこか泡ンつこりました。馬はきつかったっでしょナ。 (中略)
馬に曳かせんと、馬方は金にならんもんですケン、少々くたびれとるとわかったっチ、叩いてでん曳かせよりました。ハイ 』

馬たちは、唯一食事だけが楽しみだったと思うのですが、その食料さえ馬夫たちにピンハネされて、ろくに食べられなかったといいます・・・・

平均2年で死んでいくということは、たった数ヶ月で衰弱死したり事故死したりする馬も多かったのでしょう。ならばある一定期間が過ぎたら、地上に上げて回復させれば良いのではないかと思いますが、そういうことはいっさいなく、死ねばその分をまた補充しただけということですから、坑内馬として使われた対州馬たちは、「生き物」としてでなく、「働き手」でもなく、ただの「取り替えの効く消耗品」として扱われたのだということがよくわかります。

人類史上、これほどにむごたらしい動物虐待は他にないかもしれません。



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坑内で死んでいった馬たちの分までとは言いませんが、今、絶滅寸前まで追い込まれながらも、健気に生きる対州馬たちには、少しでも季節のものをいろいろと味わわせてやりたいと思うのです・・・・・






プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。









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