アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

「わが三池炭鉱」(高木 尚雄 / 葦書房)

「わが三池炭鉱」(高木 尚雄 / 葦書房)
わが三池炭鉱

教師時代に何度も修学旅行で引率した「三井グリーンランド」は文字通り、三井三池炭鉱跡地の一部に建てられた遊園地なのですが、今まではその「三井」の名に、何の意識もなく、気にもとめていませんでした。当然ながら地下1000m近く降りていった炭鉱マン達に思いを馳せることも、多くの生活があった炭鉱住宅跡を感慨深く思うこともなかったわけです・・・。

amazonで購入した、この本。かつての図書館の払い下げ本ということで、価格は¥1でした。
届いてみると、「新座市立図書館」のシールがありました。埼玉県では、あまり閲覧されたこともなかったのか、中味は汚れもなく、大変きれいな状態でした。

「わたしは高島が好きです」(高島教師の会編・教育資料出版会)

お盆にかけて、一週間ほど群馬県・高崎市に帰省しました。おかげで、普段は読めない本が何冊かじっくり読めました。
その中の一冊は、

「わたしは高島が好きです」(高島教師の会編・教育資料出版会)
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当時の高島小学校の分会の教師達が作り上げたもの。・・・昭和61年、閉山の年の四月から翌三月・卒業期までの子ども達の心の動きと分会員である教師達の取り組みをまとめてあります。当時の「炭鉱」「閉山」というものを知る上で、とても貴重な資料と言えると思います。

特に四月の歓迎遠足の日に炭鉱で発生した爆発事故は、それまでの新一年生を迎えたにぎやかな時間を一変させました。遠足は途中でうち切られ、子ども達は不安な思いで帰宅をします・・・。残念ながら犠牲となった鉱員の中には、小学生の保護者も含まれていました・・・。そして、赤字の膨らんでいた高島炭鉱は一気に閉山へと突き進んでゆきます。

「炭鉱」というものは、その性質上、掘り続ければ必ず、その付近の石炭は無くなるわけで、安全に効率よく採炭できなくなった時点で閉山となり、新しい炭鉱が開発されてゆくわけです。つまり鉱員たちは、その都度、「移住」を迫られるわけで、引っ越しは他の仕事に比べて多かったと言えます。
しかし、子ども達にとって、慣れ親しんだ地域、仲間との別れは、当然ながら、大変さびしいものであったようです。大人にとってもヤマ(鉱山)は一家族という言葉が示す如く、炭鉱区は大変質の高いコミュニティだったのですが、子ども達にとっても、知らない場所の、知らない小学校に移らねばならないということは、辛い目・寂しい目に遭うということもすくなくなかったようです。
ましてや「閉山」となると、仲のよかったクラスがバラバラになるということであり、毎日のようにクラスに空き机が増えていくのは、残される教師や地元の子どもにとっても辛いことだったのです。

同書では、子ども達と一緒に「閉山させないで!」と手紙を書いて、時の総理大臣に送った取り組みや、離れていった仲間との結束を固める取り組みなど、分会教師たちの奮闘ぶりが紹介されています。
このような先輩・分会員(教師達)がいたということに対し、もと教師としても、その熱意に対し敬意を表したい思いで読みました。

残念ながらネットでも見つけることは難しい本なのですが、「炭鉱」というものの本質を知る上でも、大変重要な資料であると思いました。そう言う意味でお勧めの一冊です。

↓本日のツアーより。
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写真集「水俣MIAMATA」 W・ユージン・スミス、アイリーン・M・スミス

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時津図書館さんには迷惑をかけましたが、やっと借りていた写真集「水俣MIAMATA」の文章部分を読み終えました。(返却しました)
ウィリアム・ユージン・スミスについては、2008年の10月に、このブログで書いたので、その中からエピソードを下に再掲載します・・・。

*第2次大戦中、従軍カメラマンとしてサイパンに赴き、凄絶な現状に遭遇。大怪我をして道端にうずくまっている日本人の少女を助け上げ、側を通りかかった米軍車輌に救護所まで乗せて行ってくれるように頼むが、「お前だけなら乗せて行ってやる。そんなもん(子)はその辺に捨ててしまえ!」と言われる。憤慨したユージンは、その少女を抱きかかえたまま15キロを救護所まで歩いて行った。

*とにかく仕事に対する集中力は尋常ではなかった。一週間徹夜を続け、一週間目に巨木が倒れるようにその場で崩れ、眠りに落ちた。

*自分の写真については、とにかくこだわりがすごかった。自分の納得しない写真は絶対に掲載を許さなかった。それが「LIFE」のような超メジャーな雑誌が相手でもその姿勢は変わらず、その為に「LIFE」を飛び出すことになった。

*被写体となるもの(人)を徹底的に調べてから撮影に望んだ。撮影に入るまで、数ヶ月に渡って資料を貪り読んだり、調べるなどした。

《wiki pediaより》

カンザス州ウィチタ出身。母方の祖母が、ネイティブ・アメリカンのボタワトミ族の血筋もひく。 スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。

第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。

1954年には『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

1961年、PR写真撮影のために来日。

1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の汚染の実態を写真に撮り、実際に座り込みなどにも参加するなど、世界にその悲劇を伝えた。1972年1月、千葉県のチッソ五井工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表し、大きな反響を得た。

1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去。59歳。

《参考リンク》

刻む 水俣と表現者たち<3> 世界へ 気づかせるのが強さ 写真家 W・ユージン・スミス(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_028.shtml

MAGNUM PHOTOS
http://www.magnumphotos.com/archive/C.aspx?VP=XSpecific_MAG.PhotographerDetail_VPage&l1=0&pid=2K7O3R139C2T&nm=W.+Eugene+Smith

最も有名な写真の1枚として、水銀に冒された少女をお風呂に入れる母親のものがあります。彼女は智子ちゃんといい、胎児性の患者でした。
智子さんは1977年に21歳で亡くなっていますが、それはユージンが倒れた年と重なっています・・・・・。彼女の死後、何度も使われた写真に対し、母親は「もう智子を休ませてあげたい」と言われたそうです。よくわかります。この写真は簡単に掲載したりする性質のものではなく、一人一人が記憶の中に焼き付けなければならないものだと、私は考えています。
そして、ヒトの親となった今、その写真から語りかけてくる言葉はずしりと重みを増してきます・・・。

尊敬してやまないユージンだが、私が一番好きな彼のポートレートは、下の1枚なのです・・・・・。誰が撮ったのだろう・・・・
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「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」 宮本常一

宮本常一著の「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」を読了しました。とっても面白く深い名著でした。
この宮本常一というヒトの考え方・感じ方に大変共感を覚えるとともに、その人柄にも引きこまれてしまいました。
「対州馬」の縁で、この本に出会えたことをとてもうれしく思います。そして宮本氏の撮影した同著の表紙にも子どもの姿が見えることで、何か全てがわかったような気がします・・・。

同著のp223から224にかけて特に秀逸な文章があると思いましたので、一部紹介します。

・・・・いずれにしても島は大きく変わり始めている。
 それにしても、これからさきこの島人は何をしてゆけばよいのか。この島を訪れる観光客は次第に多くなりつつある。その多くはこの島の自然美をもとめてやって来る。岳の辻、八幡崎、そのほか郷ノ浦、勝本付近の海岸美をもとめて来る。この島には人の心をひくような文化的な遺跡は比較的少ない。史蹟といわれるものも文永・弘安の役の古戦場であるとか、国分寺西北の古墳群、安国寺などが旅人の心をひくものであろうか。
そういうことを反省するにつけて、現在の人々は何を残してゆけばよいのであろうか。いま次々に建てられつつあるコンクリートの建物は、はたして人の心をひく文化財たりうるだろうか。もうぼつぼつ島の文化を知る手がかりになるような博物館、それも歴史や民俗ばかりでなく、陸や海の自然や動植物などの生態を知り得るような公園なども作られてよいのではなかろうか。それもケチなものでなく、壱岐の人達の夢やエネルギーのあふれ出たようなものであってほしいと思う。
 その気になれば、そういうものは年数をかけさえすれば実現もむずかしくない。日本ではそういうものを多くは観光客のために作られる。そういう施設を訪れるものはたいてい観光客である。しかし家族で訪れることのできるようなものを作りたい。外国では博物館や植物園、動物園は親子や家族が多くそこを訪れている。そして親と子をつなぐ大切な絆の役割をはたしている。日本のそうした施設は親子をつなぐに足るほどの充実した内容をもったものが少ない。むしろ無いところが多い。
 近頃歩いていてもしきりに思うのは、今の人達は後世の人達に対して誇り得るものとして何を残せばよいのだろうかということである。今日の観光というのは、先祖の残した文化、あるいは自然美などの居食のようなもので、現代の人々の作り出したものはきわめて少ない。これでよいのだろうかと思う。・・・・・

宮本氏が壱岐・岳の辻において風景を眺めながら考えたことなのですが、すでにこの時、来るべき近未来を予見していたのでしょう。
とても考えさせられる部分だと思いました。

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2/28(日)長崎新聞子ども欄「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」最終回は、ささやかながら福岡県に実在した江崎 舞さんという少女へのレクイエムという意味合いがありました。江崎さんについては1/11の記事に詳しく書いています。本当に僭越なことだとは思うのですが、対馬という背景、対州馬とつなげて、車椅子の少女=江崎舞さんという自然なイメージのつながりが持て、この最終作ができました。

「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー


実は昨日、新聞社の担当さんから、今の連載が3月で終わることを告げられました。瞬間、「このトリも、タマゴを産まなくなったバイ・・・とクビを切られるのか~ノ( ̄0 ̄;)\オー!!ノー!!!!」と思ったのですが、よくよく聞くと、4月から誌面の改編があるためでした・・・・。
考えてみれば、2年半もの間、続けさせてもらって・・・それは本当に自分の人生にとっても(けっして大袈裟でなく)大きな経験でした。
小さなコーナーかもしれませんが、自分の持っていた様々なエッセンスをこのコーナーから引き出してもらったような気がします。本当に感謝ですね。
さぁ・・後は明後日の掲載を含め3回。2124文字と3枚に全てを出し切るつもりで、いいものを創りたいと思います。乞う、ご期待!!
尚、最終回は3/28(日)の長崎新聞です。長い間、ご愛読下さいまして本当にありがとうございました。

昨年、クリスマスの放送でも紹介した「ライ麦畑でつかまえて」のJ・D・サリンジャー氏が昨日亡くなりました。
よくTVのインタビューなどで、「この人の訃報を聞いて、ひとつの時代が終わったな・・・と感じる」というのを聞きますが、本当に今日はそういう気がしました・・・・。
私にとって、「ライ麦・・・」のホールデン・コールフィールドをはじめ、フィービー、アクリー、ストラドレーター、スペンサー先生などは、他人の気がしないほど親しみのある存在でした。大学時代の友人からこの本を初めておしえてもらっていらい、何度引っ越ししても、この本だけはいつも近くに置いておき、たまに開いていました。
 「ライ麦・・・」の最後あたり、酔ったホールデンが、冬の夜のセントラルパークで凍った池のアヒルを見に行くシーンと、同公園のメリーゴーランドに乗ってるフィービーをずっと見ているシーンがあるのですが、ともに大好きなシーンで、25歳の時に初めて一人でニューヨークまで、この場所を見に行きました・・・。
教員1,2年目の頃、上記の場面の油彩画を描きました。その絵を見た学校事務員から、この寂しそうな姿が、君に似ていると言われました。
佐世保で知り合った友人の英国人、アランにペーパーバックスの「ライ麦・・・」の原文を英語で吹き込んでもらい、ヒアリングに使いました・・・。

今ではこの本は、ジョン・レノンを射殺したチャップマンのポケットに入っていたということの方が有名になってしまいましたが、この本は、前編に笑えて、最後にとてもロマンティックというか、ジ~ン・・・とする大変すばらしい本なのです・・・・。

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若き日のJ・D・サリンジャー

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「ライ麦・・・」は幾つかの出版社版・翻訳者がありますが、この白水社の
野崎 孝さんのものが絶対的にお勧めです!

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私の拙作。実際にNYで写真を撮ってきた後に制作したものです。
けっして池のほとりで、おしっこをしているわけではありません・・・。^^;







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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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