アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

名馬キャリコ / バージニア・リー・バートン

この作品が、「小さい おうち」など他の物より知名度が高くないのは、本のサイズがコンパクトで横長ということでしょう。
しかし、子どもに布団の上で読み聞かせするのにはちょうどいいサイズだと思います。
画像
続きを読む

「ロード・オブ・ザ・リング」の原作者J・R・R・トールキンの才能のルーツはシングルマザーで早世した母の家庭教育にあった


2015年現在、映画化された「ホビットの冒険」シリーズと「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」シリーズの世界的なヒットについては、今更ここで繰り返し述べる必要もないと思いますが、その原作者であるJ・R・R(ジョン・ロナルド・ロウエル)・トールキンについては、さほど知られていないように思います。
特にその生育暦については、現代においても尚、参考になる部分が少なくないと思い、稚拙さはまぬがれないものの記事にて紹介してみたいと思いました。

↓は30年ほど前に買った、「指輪物語」の文庫本です。この時初めて目にしたトールキンの横顔は、「何となくいい笑顔をしたお年寄りだなぁ・・・」ぐらいのものでしかありませんでした。
img012

J・R・R・トールキンが生まれたのは、1892(明治25)年のオレンジ自由国、ブルームフォンテーン。(注:現在の南アフリカ共和国の一部。この時代はイギリスがオランダ系移民等であるボーア人(ブール人もしくはアフリカーナ)との戦争に敗れた第1次ボーア戦争から約10年が経過していた頃になります)
ドイツ系イギリス人で銀行員であったアーサー・トールキンと、やはり同じイギリス人であったメーベル・サフィールドの間の第一子としてこの世に生を受けています。続きを読む

「この子を残して」 永井 隆著の初版本

ふらっと古本やに立ち寄ったら、永井 隆さんの「この子を残して」の初版本が、500円で売ってました。
確かに傷みもひどいし、書き込みもしてありますが、それにしても500円とは・・・・・
まぁこれも長崎ならでは、と言えば、言えなくもないのですが・・・
nagai471

「この子を残して」は、昭和23年、つまり博士が亡くなる3年ほど前に、発行されています。
これは、同本に掲載されている、在りし日の3人の姿です。
nagai473

永井博士と言えば、数年前、自分のラジオ番組で、お孫さん(長男、誠一さんの息子さん)である永井 徳三郎さんとお話させて頂いた後、送られてきた下の葉書の絵と文が非常にマッチしていて、うれしかったのを思い出します。
まるで、永井博士本人から頂いたような気がして・・・その葉書を額に入れてずっと仕事場に貼っています。
nagai484
本当に、永井博士は、「画家」としても非凡な才能を持っている・・・言い換えれば、「心に届くいい絵」を描かれています。
nagai472






続きを読む

「軍艦島グラフィティ」 むらかみ ゆきこ

実は、私はイメージとして「軍艦島好き=廃墟マニア」?という偏見が強く、特に廃墟写真集とかは、手を触れたことすらありませんでした。

そんな頑固な私のココロをおしひらいてくれたのが、この絵本でした・・・・
著者の村上さんは、6歳まで(昭和49年の閉山時まで)、軍艦島で暮らしていた方です。grafitty382

その中の、この頁。『クァツン クァツン・・・「もうすぐだけんね」と お母さんの声・・・』
一体、どういう島だったんだ!?船に乗るためにトンネルって?
そして海の中の小島のドルフィンって??

ただただ「トンネル」と「ドルフィン」が、どうなってるのか、見たい!
・・・これが、今思えば、全ての始まりでした。

tunnel383

残念ながら、この本、発行部数が極端に少なく、ネット上でも、見つかることはまずありません。
長崎市内の図書館ですら、本館でしか見たことが無い・・という、まぼろしの本!?なのです・・・・
wall384


人気ブログランキングへ

宮本 常一著「日本人を考える」より『逃げ場のない差別のひだ』

様々な文化人と宮本氏との対談集となっている同書の中で、秀逸な章だと思いました。
同氏が日本中を歩いて感じた、地域の中の「差別」について述べたものなのですが、この(人の心の中にある)差別の中にこそ「戦争」の論理がある・・・と、読み終わってから自分なりに結論にいたりました。

キーワードは「土地」だと思います。特に日本の歴史において徳川時代におし進められ、日本全土にあった「ある特定の土地にしがみつくこと=生きる」という閉鎖的な環境がこれまでの言われ無き差別を生み出し、その精神性は戦争を肯定させる要素になったと思うのです。
同氏はこの差別性を我が長崎県では(その時代において)離島を例に説明しています。もともと島に住んでいた人々(と言っても太古には移住者であることにかわりなく、ここでは先に土地を占有していた人々という意味)は、移住者を非常に警戒し、執拗に区別しました。まぁ先住者にとって、後から移住して来る者たちというのは、自分達が生活の糧としていた様々な資源や土地を奪う(或いは減らす)かもしれないという脅威であったことはうなずけます。先住民は、移住者にやせた土地のみを与え、漁業権さえ厳しく制限しました。結果的に移住者は、生活していくのに大変な労苦を強いられました。また移住者の中にたまたま成功した者が出ても、地主は決して、そういう移住者に土地を売るということはしなかったそうです。そういうことをすれば、その後自分達が移住者にしていたことをやり返される恐れがあったからです。また先住民は、その地区を統制していくために、先住民の中でも細かく縦割りのランク付けをしたといいます。この中には、例えば「先代が移民の家系だった」とか「親類すじに罪人がいた」とかいったことが判定材料となりました。しかし、多くは何の判断材料もないわけで、この時にこそ「ライ病すじ」だとか「狐つき」「へびつき」「犬神」と言ったまったく何の根拠もない差別や蔑称が誕生?したわけです。そしていったんその根拠なきレッテルを貼られると、その差別の呪縛から何代も逃れることができなかったというわけです。こう書いてくると、小中学校の閉鎖的なクラスにおける「いじめ」の構造レベルとなんら変わらないような気もするのですが・・・。
要は「土地をとられる=利益を奪われる」という脅威が攻撃・排除というベクトルへと向かわせるということです。このことは、例えば、現在の我が県でも、土地の利用について対立が深刻化していますし、世界の至る場所で(日本も含め)国境紛争は続いています。もっと個人的なレベルまで下げて説明するならば、単なる運動会や花見の場所とりや、乗り物等の空席の確保などにおいても、常に奪い合い(譲り合いではなく)が起こっているぐらいのことは誰もがうなずけるでしょう。
「自分のテリトリーに入ってくる者を激しく攻撃する!」というのならば、もうそれは野生動物の生態そのものですね。

とすれば、戦争を放棄するキーワードは「寛容」あるいは「流動性」ということにでもなるのでしょうか・・・。
宮本氏は、差別ということに観点を置いた時、戦前戦後ではなく、昭和30年頃の集合住宅などが各地に出来始めた頃を転換期だと説明しています。これはまさに炭鉱住宅などが存在していた時期に重なります。つまりそういった集合住宅が集まって出来た街には、当然全国より人々が集まり、流動していました。地域にあった差別性という呪縛も、そこでは及ばなかったわけです。また同じつくりの長屋が建ち並んでいたという条件も、江戸時代より受け継がれていた長屋文化を発展させる素地となりましたし、何より苦しい時代を助け合って生きていこうという精神性を育てるまたとない環境であったことがうかがえます。
かつて「筋違い」な婚姻は許されなかったという地域の慣習(呪縛)を打ち破っていったのも、そういう街で育った若い男女であったそうです。そういうことから、もうひとつキーワードを足すとすると、やはり「愛」ということになるのでしょうか。

自分の畑に水をひくのなら、隣の畑にも同じか、それ以上の水が流れ込むようにする・・・・
混んでいる乗り物で席に座ることができたなら、ちょっと辺りを見まわし、よりその席を必要とする誰かに譲ってあげる・・・・
結局は、そういうことなのかなぁ・・・と思ってしまいます。

日本人を考える317

「われなお生きてあり」 (福田須磨子著 ちくま文庫)

夏休みが終わった為か、久々に少人数のツアーでした。全てのゲストさん、グループの方とけっこう突っ込んだ話ができたので、上陸こそできませんでしたが、お互いに満足感のある?ツアーとして無事終了することができました。

われなお生きて

「われなお生きてあり」 (福田須磨子著 ちくま文庫)

夏の帰省中に読んだ数冊の中の1冊。
被爆体験は数多くあるのですが、これだけ時系列に沿って庶民の目線で被爆前後を綴っているものは他にないと思います。
特に衝撃的なのは、被爆2日目(8/11)、浜口付近で出会った黒こげになりながら生きていた人・・・の描写でした。
また文章に出てくる口語が「浦上弁」であり、その出身者の私としては、妙になつかしいところがありました。
ただ、後半の半生記を綴った部分は、著者に関わった個人を一方的に中傷していると思われる記述もあり、この部分に関しては、いただけない思いがしました。

「わが三池炭鉱」(高木 尚雄 / 葦書房)

「わが三池炭鉱」(高木 尚雄 / 葦書房)
わが三池炭鉱

教師時代に何度も修学旅行で引率した「三井グリーンランド」は文字通り、三井三池炭鉱跡地の一部に建てられた遊園地なのですが、今まではその「三井」の名に、何の意識もなく、気にもとめていませんでした。当然ながら地下1000m近く降りていった炭鉱マン達に思いを馳せることも、多くの生活があった炭鉱住宅跡を感慨深く思うこともなかったわけです・・・。

amazonで購入した、この本。かつての図書館の払い下げ本ということで、価格は¥1でした。
届いてみると、「新座市立図書館」のシールがありました。埼玉県では、あまり閲覧されたこともなかったのか、中味は汚れもなく、大変きれいな状態でした。

「わたしは高島が好きです」(高島教師の会編・教育資料出版会)

お盆にかけて、一週間ほど群馬県・高崎市に帰省しました。おかげで、普段は読めない本が何冊かじっくり読めました。
その中の一冊は、

「わたしは高島が好きです」(高島教師の会編・教育資料出版会)
わたしは005

当時の高島小学校の分会の教師達が作り上げたもの。・・・昭和61年、閉山の年の四月から翌三月・卒業期までの子ども達の心の動きと分会員である教師達の取り組みをまとめてあります。当時の「炭鉱」「閉山」というものを知る上で、とても貴重な資料と言えると思います。

特に四月の歓迎遠足の日に炭鉱で発生した爆発事故は、それまでの新一年生を迎えたにぎやかな時間を一変させました。遠足は途中でうち切られ、子ども達は不安な思いで帰宅をします・・・。残念ながら犠牲となった鉱員の中には、小学生の保護者も含まれていました・・・。そして、赤字の膨らんでいた高島炭鉱は一気に閉山へと突き進んでゆきます。

「炭鉱」というものは、その性質上、掘り続ければ必ず、その付近の石炭は無くなるわけで、安全に効率よく採炭できなくなった時点で閉山となり、新しい炭鉱が開発されてゆくわけです。つまり鉱員たちは、その都度、「移住」を迫られるわけで、引っ越しは他の仕事に比べて多かったと言えます。
しかし、子ども達にとって、慣れ親しんだ地域、仲間との別れは、当然ながら、大変さびしいものであったようです。大人にとってもヤマ(鉱山)は一家族という言葉が示す如く、炭鉱区は大変質の高いコミュニティだったのですが、子ども達にとっても、知らない場所の、知らない小学校に移らねばならないということは、辛い目・寂しい目に遭うということもすくなくなかったようです。
ましてや「閉山」となると、仲のよかったクラスがバラバラになるということであり、毎日のようにクラスに空き机が増えていくのは、残される教師や地元の子どもにとっても辛いことだったのです。

同書では、子ども達と一緒に「閉山させないで!」と手紙を書いて、時の総理大臣に送った取り組みや、離れていった仲間との結束を固める取り組みなど、分会教師たちの奮闘ぶりが紹介されています。
このような先輩・分会員(教師達)がいたということに対し、もと教師としても、その熱意に対し敬意を表したい思いで読みました。

残念ながらネットでも見つけることは難しい本なのですが、「炭鉱」というものの本質を知る上でも、大変重要な資料であると思いました。そう言う意味でお勧めの一冊です。

↓本日のツアーより。
DSCF3762

写真集「水俣MIAMATA」 W・ユージン・スミス、アイリーン・M・スミス

077_01


時津図書館さんには迷惑をかけましたが、やっと借りていた写真集「水俣MIAMATA」の文章部分を読み終えました。(返却しました)
ウィリアム・ユージン・スミスについては、2008年の10月に、このブログで書いたので、その中からエピソードを下に再掲載します・・・。

*第2次大戦中、従軍カメラマンとしてサイパンに赴き、凄絶な現状に遭遇。大怪我をして道端にうずくまっている日本人の少女を助け上げ、側を通りかかった米軍車輌に救護所まで乗せて行ってくれるように頼むが、「お前だけなら乗せて行ってやる。そんなもん(子)はその辺に捨ててしまえ!」と言われる。憤慨したユージンは、その少女を抱きかかえたまま15キロを救護所まで歩いて行った。

*とにかく仕事に対する集中力は尋常ではなかった。一週間徹夜を続け、一週間目に巨木が倒れるようにその場で崩れ、眠りに落ちた。

*自分の写真については、とにかくこだわりがすごかった。自分の納得しない写真は絶対に掲載を許さなかった。それが「LIFE」のような超メジャーな雑誌が相手でもその姿勢は変わらず、その為に「LIFE」を飛び出すことになった。

*被写体となるもの(人)を徹底的に調べてから撮影に望んだ。撮影に入るまで、数ヶ月に渡って資料を貪り読んだり、調べるなどした。

《wiki pediaより》

カンザス州ウィチタ出身。母方の祖母が、ネイティブ・アメリカンのボタワトミ族の血筋もひく。 スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。

第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。

1954年には『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

1961年、PR写真撮影のために来日。

1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の汚染の実態を写真に撮り、実際に座り込みなどにも参加するなど、世界にその悲劇を伝えた。1972年1月、千葉県のチッソ五井工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表し、大きな反響を得た。

1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去。59歳。

《参考リンク》

刻む 水俣と表現者たち<3> 世界へ 気づかせるのが強さ 写真家 W・ユージン・スミス(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_028.shtml

MAGNUM PHOTOS
http://www.magnumphotos.com/archive/C.aspx?VP=XSpecific_MAG.PhotographerDetail_VPage&l1=0&pid=2K7O3R139C2T&nm=W.+Eugene+Smith

最も有名な写真の1枚として、水銀に冒された少女をお風呂に入れる母親のものがあります。彼女は智子ちゃんといい、胎児性の患者でした。
智子さんは1977年に21歳で亡くなっていますが、それはユージンが倒れた年と重なっています・・・・・。彼女の死後、何度も使われた写真に対し、母親は「もう智子を休ませてあげたい」と言われたそうです。よくわかります。この写真は簡単に掲載したりする性質のものではなく、一人一人が記憶の中に焼き付けなければならないものだと、私は考えています。
そして、ヒトの親となった今、その写真から語りかけてくる言葉はずしりと重みを増してきます・・・。

尊敬してやまないユージンだが、私が一番好きな彼のポートレートは、下の1枚なのです・・・・・。誰が撮ったのだろう・・・・
592c19cf

「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」 宮本常一

宮本常一著の「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」を読了しました。とっても面白く深い名著でした。
この宮本常一というヒトの考え方・感じ方に大変共感を覚えるとともに、その人柄にも引きこまれてしまいました。
「対州馬」の縁で、この本に出会えたことをとてもうれしく思います。そして宮本氏の撮影した同著の表紙にも子どもの姿が見えることで、何か全てがわかったような気がします・・・。

同著のp223から224にかけて特に秀逸な文章があると思いましたので、一部紹介します。

・・・・いずれにしても島は大きく変わり始めている。
 それにしても、これからさきこの島人は何をしてゆけばよいのか。この島を訪れる観光客は次第に多くなりつつある。その多くはこの島の自然美をもとめてやって来る。岳の辻、八幡崎、そのほか郷ノ浦、勝本付近の海岸美をもとめて来る。この島には人の心をひくような文化的な遺跡は比較的少ない。史蹟といわれるものも文永・弘安の役の古戦場であるとか、国分寺西北の古墳群、安国寺などが旅人の心をひくものであろうか。
そういうことを反省するにつけて、現在の人々は何を残してゆけばよいのであろうか。いま次々に建てられつつあるコンクリートの建物は、はたして人の心をひく文化財たりうるだろうか。もうぼつぼつ島の文化を知る手がかりになるような博物館、それも歴史や民俗ばかりでなく、陸や海の自然や動植物などの生態を知り得るような公園なども作られてよいのではなかろうか。それもケチなものでなく、壱岐の人達の夢やエネルギーのあふれ出たようなものであってほしいと思う。
 その気になれば、そういうものは年数をかけさえすれば実現もむずかしくない。日本ではそういうものを多くは観光客のために作られる。そういう施設を訪れるものはたいてい観光客である。しかし家族で訪れることのできるようなものを作りたい。外国では博物館や植物園、動物園は親子や家族が多くそこを訪れている。そして親と子をつなぐ大切な絆の役割をはたしている。日本のそうした施設は親子をつなぐに足るほどの充実した内容をもったものが少ない。むしろ無いところが多い。
 近頃歩いていてもしきりに思うのは、今の人達は後世の人達に対して誇り得るものとして何を残せばよいのだろうかということである。今日の観光というのは、先祖の残した文化、あるいは自然美などの居食のようなもので、現代の人々の作り出したものはきわめて少ない。これでよいのだろうかと思う。・・・・・

宮本氏が壱岐・岳の辻において風景を眺めながら考えたことなのですが、すでにこの時、来るべき近未来を予見していたのでしょう。
とても考えさせられる部分だと思いました。

taisyuu2861


2/28(日)長崎新聞子ども欄「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」最終回は、ささやかながら福岡県に実在した江崎 舞さんという少女へのレクイエムという意味合いがありました。江崎さんについては1/11の記事に詳しく書いています。本当に僭越なことだとは思うのですが、対馬という背景、対州馬とつなげて、車椅子の少女=江崎舞さんという自然なイメージのつながりが持て、この最終作ができました。



プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




対州屋~写真のデジタル化




荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

坂ん街の暮らし、応援します。
馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)



記事検索
☆ FaceBook ☆