アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

仕事の中で

問題は関わる時間の長さではない

教師時代のある時、出来るだけ長い期間、生徒と関わる(受け持つ)ことが大切と考えていた時期がありました。
佐世保時代、S中学校5学年を三年間学級担任として持ち上げたのが、最も長い生徒達とのつき合いでした。その三年間、楽しいことも多かったのですが、総じて「嵐のような」三年間の日々でした。中学校の三年間、子ども達は本当に「劇的に」変化(成長)してゆきました・・・。しかし、それはある程度大きな学校だからできたことでした。
その後は次第に、担任であるないに関わらず、「関わる一年、一時間が勝負」という考え方に変わっていきました。しかしそれでも「一年」という時間は、生徒達が驚くほど変わっていったことを確認するのに十分な時間でした。

今のガイドという仕事。それは「おそらく二度と顔を合わせることのない」ヒトと約3時間を共にし、別れる仕事です。この時間は、取りようによっては、「すれ違うだけの」時間かもしれません。しかし、とても濃い有意義な時間になりうる可能性も含むようにも思えます・・・。

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なぜ、ここまでして、ここの石炭を掘ったのか?

なんだかんだ、一週間ぶりのメインの軍艦島ガイドでした。一週間あくと、ちょっと勘がにぶるような感もありましたが、その分全力投球?しました。
今日は若いお客さんが多かったのですが、その中のある若い男性曰く『なぜ、ここまでして、ここの石炭を掘ったのですか?』・・・と。
そうですよねぇ・・・・若い世代には、「石炭」というもの自体にリアリティがないので、なぜここまで過酷な自然の中に、このような要塞のごとき島を造ったのかは、当然疑問なんですよね・・・。
実際は製鉄所の燃料として使われたのですが・・・・。
現代では、石炭を使うという場面に遭遇することがないですからね。
かく言う私も、幼い頃長崎で蒸気機関車の黒煙を見たのは、一度きりです。それも現役(通常運行)の蒸気機関車ではなかったと思います。
「火鉢」や「七輪」といったコトバも、なかなかリアリティを持って受け止めてもらえないとしても、若者は大変熱心に「軍艦島」を受け止めようとしてくれます・・・・。

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今日は「霧の中の軍艦島」でした。いつもは、段々見えてくるのですが、今日の場合は霧の中にうっすらとシルエットだけがぼんやり見えてて、突然姿を表す・・・・という感じでした。こういう登場の仕方も、なかなかいいもんです。

私にまで、あめちゃんをくれたお母さん

またもや穏やかすぎる?ドルフィン桟橋・・・・。こんなこともあるんですねぇ・・・。
神奈川から来られた親子連れのお客さん。お母様が家族にあめ玉を配るとき、私にまでくれました。そう言えば、うちのお袋もいつもあめ玉を持ち歩いていたので、なんだかその事を思い出してうれしかった・・・。
息子さんは「わかりやすかったっス!」と言ってくれました。・・・謝謝!
今晩はアマンディで温泉に入って、稲佐山で夜景を見る予定だと言われてました。今日は穏やかな日なので、きっと良い長崎観光の旅をされていることでしょう・・・・。

数ヶ月、数年たった後に効果・影響を及ぼすような「何か」こそ本物

昨日今日と穏やかな晴天。ドルフィン桟橋付近も見たことがないくらいに静かで無事上陸をはたしました。

こちらの説明を、「まるで砂漠が水を吸い込むように?」受け取ってくれるお客さんがいます。また、何を話しても眉ひとつ動かさず無口なお客さんもいます・・・。どちらもやはりお客さんです。
教師時代につかんだ事ですが・・・、今やっていることがすぐに効果を現すということだけにとらわれてはならないのであって、むしろ数ヶ月、数年たった後に効果・影響を及ぼすような「何か」こそ本物・本質であると思うのです。
ですから、どのような面子であってもベストを出し切ることが大切だと考えます・・・・・。

65号棟の屋上に今もかすかに見える幼稚園の滑り台・・・。そのかすかな鉄のアーチを見て、そこに下図のような過去確かににあった沢山の息吹を想って貰えればうれしいのですが・・・・・。
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テレ朝系で放送された「空から見た地球」

作品をお渡しした後、子連れだったので長与町の産直センターでおにぎりとおかずを買って海沿いの埠頭で食べました。風は強かったのですが、大変に気分のいい時間でした・・・。

昨日テレ朝系で放送された「空から見た地球」の軍艦島を扱った部分を見ました。こう言っては失礼ですが、予想よりもよく出来ていたと感じました。また、石原さんもタレントとして適当な事を言っていたのではなく、ちゃんと芯をとらえた発言だったことが、流石と思いました。

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ここは日給住宅の通路です。この後ろをスタッフや市の職員さんなんかと一緒について歩いていました。
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人が住んでいた頃の映像がとても効果的に構成されていたと思いました。やっぱり子どもの笑顔がいいですよね。

岩崎弥太郎が高島に開いた、北渓井坑

AMの2局で午前中、武田鉄矢さんが出ており、やはり龍馬の話をしていましたが、たっいへんに!面白いものでした。海援隊のコンサートでも、鉄也さんのハナシは抜群に魅力がありましたから、うなずけますが・・・。特に共感できた部分は、「戦後からのアメリカ型高度経済社会が終わったのが今、登りつめた所から、俯瞰しつつ降りるという貴重な時代である・・・・」みたいな話でした。

軍艦島ツアーのガイドの勉強でツアーに同行しました。ともかく端島に関われること、近くに行けることは本当にうれしいことです。

まずは高島へ上陸。バスで島内を巡ります。
これは↓「北渓井坑(ほっけいせいこう)跡。
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「北渓井坑」とは・・・・・
江戸時代の高島(西彼高島町)は佐賀鍋島藩の領地で、深堀鍋島氏が支配していた。 島の石炭は宝永7年(1710)「平戸の五平太」が発見したという。のちに石炭は、瀬戸内地方に製塩の燃料をして売るまでになった。
 安政の開港で長崎入港の外国船が増えると、その燃料として石炭の需要が増大した。藩主直政は、高島の石炭を外国人との合弁で開発しようと、慶応4年(1868)藩と長崎のグラバー商会との間に事業契約を結ばせる。
 48メートルの深さに垂直に掘り下げた北渓井坑が設けられ、翌明治2年4月17日、厚さ8尺(約2.4メートル)の炭層に着炭。採炭にこぎつけた。巻き上げ・揚水用の蒸気機関を備え、波止場までレールも敷いた、日本で初めて洋式採炭法を取り入れた近代炭鉱である。
 明治7年、炭鉱はいったん官営となったのち後藤象二郎に払い下げられ、同14年(1881)になって岩崎弥太郎が買収し三菱の経営に移った。


弥太郎の死後、経営の中核となったのが、この高島炭坑と長崎造船所であり、いわば三菱のルーツであった場所と言って差し支えないと思います。

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高島港近くにある「岩崎弥太郎像」です。風頭の龍馬像に負けないくらい、どっしりと風格のある像です。ツアーのお客さんは若い女性が多かったのですが、「龍馬伝」の影響か、皆さん一斉にこの像を撮影していました・・・。

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高島炭坑資料館横にある軍艦島の模型です。

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そしてこれは高島南岸から見た端島(軍艦島)。大時化の時は波頭が島全体を覆い、島の姿が見えなくなったそうですが・・・。

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今回、上陸はしませんでしたが、船で出来る限り接近しました。

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この日、長崎は強風波浪注意報がでており、付近の海上は白波が立って荒れ模様でしたが、不思議と「ドルフィン桟橋」の近くだけは、凪いでいました。

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しかし、いったん島を離れると、この波しぶきです!


敬虔なプロテスタントの知人

昔からの母の友人で敬虔なプロテスタントの方がおられる。失礼な言い方かもしれないが、「清貧」という言葉を思い浮かべた時、この人の右に出る人はまずいません。物欲など更々無く、(数年前お会いした時に、古い写真を見せてもらえないかと頼むと、カメラ自体持ったことがないということでした)いつも他人の幸せを神に祈り・・・・・長崎ではどうしてもカトリックの信徒の方がイメージが強いのですが、私にとっての「長崎の真の敬虔なクリスチャン」とは、断然この方なのです・・・。
その方が母に宛てた手紙を見る機会がありました。その中で私の仕事について触れた部分があり、そこには「・・・・自分の中に温めてきた感性を、生涯に与えられた賜物として、いのちのように具現化してゆくということは、やはり命がけでなければできないのではないか。そこにはどれほどの苦労があるか知れないが、それはやはり幸せな生き方をしているのではないか・・・」というようなことが書かれてありました。
私の仕事がそれほどの高みにあるとは、とうてい思えませんが、この方がこういう言葉でとらえて下さったということは、おそらくこの先ずっと忘れられないと思うのです・・・・。

何故か、石原良純さんと一緒に軍艦島を歩く

昨日、NPO軍艦島を世界遺産にする会・理事長坂本さんが端島(軍艦島)においてTV番組のロケを石原良純さんと共に行うのに同行させてもらい、島の中を取材することができました。今まで資料の中でしか見たことがなかった光景を直接見た瞬間から、私の中の「端島」というものが、確実に変わったように思いました。それほどまでにインパクトの大きな体験でした。
そして感じたことのもうひとつは、「無人化して36年たった今でも尚、建物達は生きている」ということでした。それは予想以上のものでした。「廃墟」なんかではなく、言い換えれば長い間「眠っている街」なのでした・・・。
私が育ったアパート群とは当然構造も環境も違うのだけど、やたらなつかしい感じがして、またあそこへすぐにでも行きたいという気持ちにかられるのはどうしてだろうと思いました。
詳しく述べる段階には至ってませんが、同会の為に微力ながらお手伝いしていきたい・・・いや同会の一端を担うつもりで自分の持てる力を出したい・・・と考えているところです。
(*石原さんの横は、全てNPO軍艦島を世界遺産にする会の理事長さんです。私は写っておりません。・・・私が撮ったので)
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宮本 常一著「私の日本地図 ⑮壱岐・対馬紀行」を読む

昨深夜、娘が嘔吐。病院では嘔吐下痢症と診断されました。それまでは、むかつきから眠ることもままならず苦しそうだったのですが、座薬のおかげでようやくおさまったのか、眠りにつきました。・・・まったく2月はうちは病魔にすっかり翻弄されました。

で、看病の傍ら開いた本が、宮本 常一著「私の日本地図 ⑮壱岐・対馬紀行」。これは「対州馬」の写真を参考にするためにだけ借りていたものです。もともと「民俗学」なんてカビくさい?感じがして、全く興味がなかったのですが、ちょっと読み始めると、これが面白いのなんの・・・。地図を片手に読んでいくと、もう止められません。なぜ、そんなに面白いのかと考えたのですが・・・
①歴史だけだと、場所が偏ってしまうのですが、ヒトが住む集落を追う民俗学はまんべんなく地域を網羅するので、実に面白い。
②宗教や政治にも偏っていないから、土地の人は心を開いて接してくれる、その様が実に興味深い。
③土地土地で聴き取りをする様子がリアルで、読みながら旅をしているような気分になれる。

同著の前書きの中に・・
「・・・多くの考えさせられる問題につきあたった。そして、地域開発にあたって大切なことは経済的蓄積だけでなく、文化的蓄積について工夫することをおろそかにしてはならないということであると考えるようになった。それについて十分のべることができなかったが、近頃の観光開発を見ると、先祖の残した文化遺産の居食いをしていて、われわれ自身の手で築いた文化を人々に示し得るものはきわめて少ないと気づいた・・・」
とありました。この「文化的蓄積」という観点こそ現代社会に欠落しているものではないかと思いました。

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長崎新聞社で最後のゲラ、プリント(色)確認作業。今回も画像班の技術さんにきばって調整してもらえました。
文化部長さんも担当デスクさんもていねいに挨拶をいただき、本当に最高に充足感を持ったまま社を後にすることができました。
ありがとうございました。

車椅子に乗った子どもをいつか描こうと思っていました。教師時代、研修先の養護学校で出会った多くの子ども達もまた、まちがいなく「僕の子ども絵日記」の「子ども達」の一部なわけですから。
でも「車椅子」というインパクトと読者が抱くであろうイメージを考えると、なかなか描けなかったのですが、最後の最後に自然な流れのまま描く事ができました・・・。
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長崎新聞の連載、終了

夕刻、連載用の最終作品をUP。毎回そうだが、ふと気づくとピークにポツンと立ってた・・・という感じです。「あれ、ここで終わり?」みたいな。
出来不出来はともかく、今回も裾野は随分と深い作品でした。

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連載、終わりです。・・・・実感しました。
お疲れさんでしたっ。




プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




対州屋~写真のデジタル化




荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

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馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)



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