アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

日々雑感

小学生の正しい夏休みの一日の始まり

当たり前のことですが、気の利かないヒトほど、「余計な」ことを言いますね。そしてまた余計なことを言うヒトほど、わざわざ近寄って来ていいます。・・・それを「余計」だとは認識していないからです。
そういうヒトは、そういう余計なことを毎日くり返し言います。
また、自分で言ったことを、まず覚えていません。
加えて、そういうヒトはまず、いい事はいいません・・・。
こういうヒトが身近にあり避けられない状況にある人は、まったくもって気の毒としか言いようがありません・・・・。


「平戸・松浦・北松の100年」より
昭和30年代に松浦市御厨町で撮影されたスナップ。
「眠い目をこすりながら早起き。蚊帳をくぐって出席カードを首から下げて近所の会場へ走る。地区長の上級生から竹製の判子を押してもらいクワガタ取りへ。小学生の正しい夏休みの一日の始まりである。」と記してあります。下線の部分がいいですね!
御厨003

同じく御厨町で昭和34年に撮影されたもの・・。
「・・・・囲炉裏や火鉢は火が燃えていることで自然と人を引き寄せた。物は少なくても心は豊かな時代だった。」とあります。
御厨2004
まったく同感です。
「便利=売れる(カネになる)」という短絡的な(非・未来展望的?)な経済構造はすぐにでも修正が急がれるばかりです。

それは、おそらく少子化と児童虐待が同時に増加している現代に一石を投じることでもあると思うのです・・・・・。

スペインの子ども達は小さい頃から、自分がなりたい職業を決めている

今年のワールドカップはスペインが優勝しましたが、「スペインの子ども達は小さい頃から、自分がなりたい職業を決めている。・・・・それは決めているというよりも、神に誓っているという表現が近い」というエッセィを読んだことがあります。だから闘牛士になると神に誓った子どもは、幼い頃から牛の角をつけた小さな一輪車を押して一生懸命練習をしているのだ・・・・と。
国民性や宗教観はおいておいたとしても、私はこのスペインのような教育観・子ども観の方が将来的には子どもを伸ばすのではないかと思います。
我が国のように何歳でこれこれ、これだけのことを記憶、暗記して・・・と細々と、しかも画一的に決めてしまっている教育メソッドでは、未来は開けないような気がしています・・・。
また、大変余計なお世話なことに、「職業」「専門性」等は子どもにはまだ早い・・・・子どもはともかく遊んで!!といった決めつけ(押しつけ)も、結果的には多くの子どもを苦しめることになっているように思います・・・。

ひとりひとりは、本当に善良なのだが、全体としてみると、本当に最悪極まりない・・・

「ひとりひとりは、本当に善良なのだが、○○全体としてみると、本当に最悪極まりない・・・・」という言葉をたまに耳にします。
選挙や世の中の動きなどを見ていても、やはり感じるのですが・・・・世の中の一人一人というのは、凡庸だけど最低限の道理をわきまえているヒトが大半だと思うのです。しかし「世の中」というひとくくりで見ると、「世間」というものは、かくも無慈悲で無情なもののようです・・・・
現代は「世間は冷たいが、中にはいい人達もいて、救われている」という現状のようですが、本来であれば「個々は辛い目に遭うこともあるが、世の中には捨てる神あれば拾う神あり・・・で、世間に何とか救われてる」でないといけないと思うのです。
8月が近づき、戦争のトピックが何かと目につきますが、個人レベルで「戦争はやってもよい」と言う人は殆どいないと思います。しかし国レベルでは現在でも戦争は起こっていますし、有史以来戦争が絶えたことがありません。みんな口々に「戦争はいけない」と言うのに、「なぜ戦争をやってしまったのか?」という子どもの問いに対し、大人は明確な答えを用意することができていません。
社会のダイナミズムだと言い切ってしまえば、それまでなのでしょうが、重要な政策や方針を決定する立場にいる人間ほど、組織というがんじがらめの集団(群れ)の中で、個人的な考え・個性を剥奪されているからではないでしょうか・・・。かく言う私とて、「○○という組織に所属するエジマです」という立場だと、まったくもって鼻持ちならない、いい加減男である可能性も高いと思うのです。やはり社会的な立場や経済生活を保つためには、そういう存在としてあるしかない・・・とでも言うのでしょうか。
ということは、このレールに乗っている限り、この先の未来も、とうてい期待は出来ないことになります。
「社会はそんなに甘いものではない」と年配の者が若者に諭しているようではいけないと思うのです。

「江戸しぐさ」に「三脱の教え」というものがあります。江戸(時代)のルールでは、初対面の人に「年齢」「勤め先」「身分」を聞いてはいけない・・・というものです。余計な情報が入ることで一種の色眼鏡で相手を見てしまい、その人の素顔や本心を見通せなくなることを恐れたという意味です。

江島家の次男坊のえじま
長崎県長崎市出身のえじま
長崎で「アトリエ隼」という屋号でイラストレーターをしてて、今はNPO軍艦島を世界遺産にする会を手伝ってガイドをしてたりするえじま

・・・いずれにしても大した肩書き・所属ではないですが、
これがもし
大会社や官公庁の肩書きなんかがついたとしても、
ただの えじま
として考え発言し、行動する(決める)えじま でなくてはならん・・・という
そういう訓練を幼い頃からやっていく教育環境を用意することが、
まずは望まれることではないでしょうか・・・・。

考えてみると、「学校」というのは、「なんとさびしい場所」なのだろうか・・・

考えてみると、「学校」というのは、「なんとさびしい場所」なのだろうか・・・と思います。基本、学校はどこもさびしい場所で、そうでない場所が稀にあるという感じでしょうか・・・・。
(かつて教師であった私がこんなことを言うのは、まったくもってけしからんのでしょうが。・・・しかし教師であったからこそ、今感じることでもあるのです)
子ども達にとって、その中で「救い」になるのは、おそらく「友達」だけでしょう・・・。しかしその「友達」にすら恵まれないとしたら・・・。子どもにとっての「学校」とは一体何なのでしょう。
そして子どもが「帰る」場所・・・・それが「家庭」「親」「保護者」のはずなのですが、それがそうでないと場合には、一体子どもはどこへゆくのでしょうか・・・・・?
いつの時代にも社会にとって「子ども」とは己の原点であり、かえってゆく「純粋な心の場所」のような気がします・・・・・。

17年ぐらい飼っていた猫が死にました

今日のお客さんの第一声・・・・『あたしゃ石炭なんて興味ないよ。だってそうでしょ、女性が石炭なんか!』
聞くと、東京の下町・文京区のちゃきちゃきで還暦の江戸っ子さん。
ひと昔前の私なら「なんてヤなヒトだ」で終わりでした・・・・。が、2秒後?には、「よっしゃ意地でん、こんヒトば石炭に夢中にさせちゃる!!」と燃えました。
はたして、この江戸っ子さん、帰りには「ありがとう、よかった」と缶コーヒーまでおごってくれました(・∀・)。まぁ、その辺、江戸っ子なんで、「なんかしら、軍艦島、高島、石炭には深い何かがある」ということを察したんで、そういう態度を示してくれたのでしょうけど・・・。
いろいろな方がおられますね・・・・。

17年ぐらい飼っていた猫が死にました・・・。大往生であり、眠るように亡くなったのでよかったんですが。
子どものためにも、しっかりと死に際を見せたいと思っていたので、弱ってきた頃から、息をひきとった瞬間。そしてペット葬儀場で骨も拾わせました。
子どものため、と言いながら、実はこれ、結果的にほぼ自分の為でした。
ネコというのは犬と違って散歩などがないので、「本当に可愛がってやったのか?」が常に気になっており、亡くなった後は、このことが予想以上に胸の中で大きくなりました。
「あれもしてやればよかった」「これもしてやればよかった」と思うと胸が押し潰されそうで・・・・。
しかし葬儀をやって骨を拾って帰ったことで、かなりココロの中が整理されました。また葬儀屋なのに明るいトーンの主人と話をすることもよかったと思います・・。

考えてみれば、うちの近所には映画「ハリーとトント」のようにいつもペットと寄り添うように暮らしているお年寄りの方がけっこういますが、これらのペットが亡くなった後は・・・・と考えるとかなり心配なものがあります。

Harry & Tonto

「被爆講話」や「戦争体験」の話は、途中で「飽きられる」からこそ、救いがある

ガイドツアーが欠航になったので、子どもの学校で行われた「被爆体験講話」を聞きに行くことができました。
今年の語り部さんは、私の母校でもある西浦上小学校で教師をされていたこともある80才くらいの男性の方でした。

子ども達の後ろから聞いていたのですが、先生達は相変わらず、途中横を向いたり、うつむいている子どもの頭をつついたり・・・・・という姿が、かつての自分に重なって、なつかしく?もありました。
で、今年、思ったことですが、こういった「被爆講話」や「戦争体験」の話は、途中で「飽きられる」からこそ、救いがあるのだ!・・ということ。教師時代の自分は、やはり今日の先生方と同じく、「語り部の方に、失礼のないように!」という思いで、講話の間中カリカリしていていました。
でも、考えてみれば、子どもが途中で、話に飽きたり、集中を切らしてしまうのは、「他人を殺す=ヒトを殺す=他を攻撃する」という内的なリアリティーを持ってないからこそです。そしておそらく全ての子どもが無意識的に抱いている疑問は・・・「ヒトを殺し苦しめる戦争はいけない。じゃあなぜ、そのわかりきった事を昔の大人達はやったのか?そして今もまだ世界のどこかで続いているのか?」でしょう。・・・・それに対しての答えを毎年、毎回我々は提示できているでしょうか????
「その説明をするには、まだ子ども達には発達段階として難しい」と逃げてしまえば、それまででしょうが、結局は、そのへんの矛盾から集中をなくしていったとしても、それは誰も責められないだろうし、「むごい」表現に異様な興味を持つよりは、まだ「飽きる」という状態の方が救いがあるようにさえ思えます。

しかし、尚、こういった「平和学習」は大変に意味のある取り組みであるように思えます。
毎度手前味噌的な言い方ですが・・・自分が行った「平和学習」の中で、もっとも自分自身で納得がいった取り組みは、平和集会における演劇でした。離島での赴任中、夏休み中の登校日(8/9)に行ったものでした。
小さな中学校ですが、生徒会役員と専門委員で配役を決め、練習に励みました。シナリオは私のオリジナルで、学徒出陣をした兵士達の手記、「きけわだつみのこえ」と松本零士氏の漫画「スタンレーの魔女」、そして特攻隊の出撃基地となった鹿児島県知覧に実在された食堂の主、鳥浜トメさんの実録を混ぜ合わせて構成したものでした。音声に「玉音放送」を使ったり、教頭先生に習って「海ゆかば」を合唱したり・・・と小さい学校ではありましたが、結構水準の高いものができたという自負がありました。
余談ですが、その学校は「夜中に霊が出る」「怪現象が起きる」として有名な学校でした。よく文化祭など、学校行事の際には、急に原因不明の電源トラブルも起きましたが、これはおそらく怪現象の仕業 だろうと言われていました。(事実、行事後には、何事もなかったように復旧しました)
この時も、劇の最中に「怪現象」が起きるものと覚悟していましたが、めずらしく?この時は何もおきませんでした。おそらく私の死んだじいちゃんが、「孫が、めずらしく、よかことばしようとしとるんじゃ!お前ら、邪魔ばすんな」ということで、霊魂に?圧力をかけてくれたんだ!・・・と感謝した思い出があります。そのじいちゃんは、かつて満州鉄道で働いていたのですが、幹部昇進の話を蹴って「家族のために、軍のやり方」を捨て、農民民を選んだヒトでした。そして大酒のみだけど、やさしい手紙を孫に書いてくれるヒトでした・・・・。

私が好きな「龍馬がゆく」の中のシーン

免許更新で、即日交付できる大村市の試験場へ。節約もあるのですが、ふと思い立って原付きで行くことにしました・・・。
通常、こういう場合、「意外に楽しかった」という感想を持つパターンが多かったのですが、今回は「意外に疲れて大変」でした・・・。
100616_091140←エンジンを冷やすためにJR大草駅で小休止。大村湾を眺めながらのコースで、この頃はまだ余裕だったのですが・・・・。

走行中思うのは、やはりバイクに乗り始めた18,9才の頃のこと。
初めて50ccのバイクを買った夏に群馬県前橋市から長崎までバイクで帰って来た(途中、フェリー使用)のですが、今思うと「無茶」以外の何物でもないと思います・・・。まぁ若気の至りというべきか第一、今は腰が痛くて、ダメですね・・・でも、久しぶりに、若かった(青かった?)頃の感覚がプレイバックできたことは、まぁプラスと言えましょうか・・・。

☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;
「龍馬伝」・・・「ネコ」と「子ども」が画面の中に表れることが減ったように思います。
私が好きな「龍馬がゆく」の中のシーンは、龍馬が新撰組の屯所のあった壬生に単身乗りこんで行った時に、気づいた新撰組隊士達がにじり寄ってくるのですが、龍馬は何を思ったか、傍らに寝そべっていたネコをしゃがんでもじゃくった?・・というところ。その姿にさすがの新撰組隊士も、何も手出しができなかった・・という。
「龍馬伝」の中の龍馬は、非常に情に厚いナイーブな人物として描かれているようですが、私が思うのは・・・龍馬はもっと「飄々とした」男ではなかったか!?ということです。
龍馬は史実として、どうやら子どもやネコなどの小動物が好きで、また好かれたようです。
そこには・・・・・
ネコなど===この世は人間が支配するためにあるような、みみっちい  ものではない。生まれついた身分や国籍、宗教などで醜い争いをくり返している人間達のなんとスケールが小さく愚かなことだろうか。
子ども====世の中のことを変えたり、新しい仕組みを大人達が考えて作っていくのはよいが、そこにはよこしまな利害を捨てて、未来に生きる(担う)子ども達(未来の子孫)にとってプラスかどうか、を考えていなければならない。

という龍馬の価値観が隠されているように思えてなりません・・・・。

伊良林2

6/14(月)

午前、久々にラジオの収録。・・・・が、終了後、機械の不調か、録音状態が非常に悪くとても使えないことが判明!(`Д´) ムキー!
まぁ一時間喋ったことには、違いないから、いいや・・・・・。( ̄‥ ̄)=3 フン

やっぱり今日は「はやぶさ」のニュースが印象的でした。個人的にも、うちの屋号と一緒なので?、非常に親近感がわきます。
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7年間の任務を終えて、カプセルを送出後、大気圏で燃え尽きた・・・というのが、やはりなんとも切ない感じがしますね。
このニュースを聞いて思い出したのが、昔観た映画「アポロ13」・・・でした。やはり、宇宙で遭難しかけた宇宙船を地上クルーの必死の努力で帰還させるという実話に基づいた映画でした。
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・・・で、思うのですが、このような科学分野におけるブレインを育てたいのなら、競争原理だけで絞っていった一部だけに、その役目を期待する・・という方式をやめて、全ての中高生に、こういう優れた映画を、いい環境で鑑賞させるべきと思います。その中には、おそらく「身震いをするような」感動を覚える者も数パーセントはいることでしょうし、その強烈な動機付けこそが、その後の思わぬ原動力になる・・ということもあるかもしれません。
子どもの頃に持った情熱、或いは子どものようにひたむきな情熱こそが、「そりゃ絶対ないよ!」という世の常識を覆す「ひらめき」や「実行力」につながっていくような気もします・・・。
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しかし、天体の話題で、もっとも「お気に入り?」なのは、↓この「スマイリング・ムーン」ですね、やっぱり。あ~やはり私は凡人だ・・・・・・・・
Smiling-moon

4/16(金)

児童虐待・・・・これ程痛ましいことはないと思ってしまいます。基本的には、虐待をする人とそうでない人がいるのではなくて、虐待をしてしまう状況に追い込まれてしまう人とそうでない人に分けるべきと考えています。そして本当に、この虐待という悲劇をなくしたいと思います。
毎日のように悲しい事件が報じられ、今日のラジオでは、「虐待が原因で親と離れて暮らさざるをえない子どもが全国に4万人もいる」と言っていました。

ところで今、自分はNPO軍艦島を世界遺産にする会さんにいろいろとご厄介になり、またガイドとしてお客さんに少々案内をすることをやっていますが、自分として一番強調したい軍艦島のファクターは「軍艦島に存在したコミュニティの質」というものです。
あれだけ、厳しい自然の驚異にさらされ、狭く限られた敷地にありながら「島は一家のようだった」の言葉に表されるような、血が通い理路整然としたクオリティの高いコミュニティーというものは、世界遺産になるかどうかはともかく、少なくとも世界に堂々と誇れるものだと思います。
その中に前述の「児童虐待」という深刻極まりない社会問題を解いていくカギも、いくつも見つかると思うのですが・・・。

4/15(木)

福田須磨子さんの「われなお生きてあり」を一日に1~2頁読んだり読まなかったりというスローペースで読んでいます。読む度にこの人の感性と近いものを感じ、親近感がわくのですが・・・。
今日読んだ中に、こんな文章がありました。

「姉ちゃん、岩屋山ば見てみんね、雲がかかって、綺麗かやろが」
自慢するものを持たない私は、岩屋山がさも自分のものみたいな顔して言った。
「ほんと綺麗かね。うちは北京にいる時ね、いつも家から見えよった岩屋山や、穴弘法山ばよう思いだしよったよ。いつみたっちゃ、やっぱり岩屋山はよかね」
姉はしみじみした声で言って立ち止まった。・・・・

稲佐山が「長崎の山」だと仮定するなら、岩屋山は「浦上の山」だという気がします。浦上育ちで、完全に浦上の人間である私にとっても、(毎日望みながらも)岩屋山の独特な形は確かに郷愁を誘う山であるのですが、メディアの中では、どうも稲佐山の陰に隠れてしまっているような気がしてならなかったので、なんだか上の文章を見つけ、うれしい思いがしました。

よく被爆直後の写真にも映っている岩屋山ですが、先の長崎新聞の連載の第1回の背景に選んだのもやはり、この岩屋山でした。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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