アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

長崎人物・歴史

今の島原そのものが「島原の乱」から続く歴史 ~ 原城址

キリシタン一揆である「島原の乱」から今年、2012年でおよそ375年。乱鎮圧後、徹底的に破壊され、石垣すらも土砂で埋められたこともあり、その舞台となった原城址(南島原市南有馬町)には、「まったく何も無い」と言われていますが、本当にそうなのでしょうか・・・。
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多くの女学生が魚雷製造に従事した地 ~ 川棚町石木郷トンネル疎開工場跡

長崎県東彼杵郡川棚町石木郷。今はひと気も無く、のどかな風景が広がるばかりの同地ですが、向かって左側の山すそには、20本以上もの疎開工場(海軍工廠)トンネルが掘られ、「九一式航空魚雷」製造の為の軍需工場地帯となっていました。
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長崎市最古のRC造・橋梁の名は、「 新橋 」

長崎市大黒町。駅前の大通りから一本入った場所にある新橋。橋の上には店舗や住居の入る建物があり、一見橋とは思えない景観となっていますが、これが市内最古のRC(鉄筋コンクリート)造の橋梁である新橋です。
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架設年は、なんと大正4年(1915)。下画像は年間7万人ものツアー客が訪れる軍艦島・最古のRCアパート30号棟ですが、この30号棟の建設が大正5年ですから、これよりも1年古いRC構造物ということになります。
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戦時中、最大の人口を抱えた、東彼杵郡・川棚町 ~ 川棚海軍工廠跡②

地図上に「川棚町郷土資料館」とあったので、早速行ってみました。なかなか立派な資料館でした。建物は古いのですが、よく資料が集められ、整理されていました。

海軍工廠についても詳しい展示がされていました。画像は工廠時代と現在との定点比較ですが、こういう展示の仕方は非常にわかりやすいですね。川棚高校や中学校校地にも戦後までは宿舎が建っていたようです。
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「工員宿舎は現存数は極めて少ない」と資料集などにはありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。疑うわけではありませんが、あまりそういうものを鵜呑みにせず、実際跡地を歩き、人に聞いてみることにしました。

けっこうそれらしい建物が幾つも目に付きます。
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戦時中、最大の人口を抱えた、東彼杵郡・川棚町 ~ 川棚海軍工廠跡①

タイトルでは「戦時中、最大の人口を・・」としていますが、この地に海軍工廠(軍需工場)が設けられて(昭和17年)からの流入人口の増加ぶりは尋常ではありませんでした。
昭和15年に7,500人ほどだった人口は、戦時中50,000人を超えたといいます。実に6.7倍です! まさに「激増」という言葉があてはまります。(2012年現在、同町の人口は約1,5000人)

今はそんな歴史も本当にあったのか?というほど静かな町内に戻ってしまっていますが、町を見下ろす城山公園には当時の海軍工廠のあった風景を表したレリーフ碑が立てられています。
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川棚町のシンボルでもあった高い煙突、のこぎり状の屋根・・・今ではまったくもって見ることができません。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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