アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

長崎人物・歴史

路面電車の軌道跡である勝山市場にあったお婆ちゃんの小さなお店、閉店

タイトル通り、路面電車の軌道跡である斜面に出来た勝山市場にあった、なじみのお婆ちゃんのお店が、いつの間にか、ひっそりと閉店していました。
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久しぶりに、あのお婆ちゃんのお店でパンを買って食べよう」と、久しぶりにやって来たのですが・・・・
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数年前に撮ったお店。
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ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」に来てみませんか!?②

ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」。その坂の街の様子を続けてご覧頂きたいと思います。(横長の画像はクリックで拡大します)

城壁のような急坂から下方を望むと、こんな感じです。
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角度が違えば、見える景色も様々です。ここは港を望む坂段。

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カトリック修道院と幼稚園を望む坂段。
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小学校を望む坂段も。
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もちろん他の地方と同じく、子どもたちの姿はこの街の「希望」であり、「未来」そのもの。
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しかし、坂の街から1軒、また1軒、と家が減り・・・
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坂の街の児童公園からも子どもの姿が消えました。
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ダムのすぐそばにあるこの公園の遊具や・・
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港を望むこの公園の遊具も心なしか寂しそうです。
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ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市「長崎」に来てみませんか!?①

政治や宗教の解釈や歴史を持ち出すと、抜けられぬ迷宮へと入り込みそうなので、あえて漠然としたタイトルとしました。
「要塞都市」という言い回しも、たんなる私見として流していただけたら幸いです。

近代的な長崎の街のもとが形成されたのは、武将たちが武力で領地争いを繰り返していた戦国時代のことです。
詳しい歴史は割愛しますが、当時の「長崎」はキリシタン大名であった大村純忠(大村藩)の家臣でもあった長崎甚左衛門が領主としておさめる小さな寒村にすぎませんでした。
(画像は、長崎氏の居城があった桜馬場中学校周辺)

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桜馬場中学校の裏手にはポルトガル人宣教師、ルイス・デ・アルメイダが1567年に渡来し、布教したことを記念したプレートがあります。
スペイン人宣教師コスメ・デ・トーレスにより派遣され、キリシタンであった長崎甚左衛門に迎えられたアルメイダは、長崎(市)に初めて布教した宣教師であり、かつこの地を初めて訪れた西洋人と言われています。
外科医でもあったアルメイダは、この近くに居住して布教所を開設し、布教と医療活動を行っています。
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その2年後、同じく長崎甚左衛門に迎えられたポルトガル人宣教師、ガスパル・ヴィレラは甚左衛門より与えられた廃寺を聖堂として改造し、長崎(市)で最初の教会、トードス・オス・サントス教会を建てています。
教会が建っていた場所は桜馬場中学校の近く、春徳寺にあたりますが、現在確認できる遺構は井戸などわずかなものにとどまっています。(井戸を見るためには前日までに春徳寺に連絡が必要)

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石碑の横に設置してあるプレート。
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小高い丘に立つ春徳寺から長崎港方面を見た景色です。ご覧の通り、港は全く見えなくなっていますが、ヴィレラたちが立った約450年前には深い入り江の天然の良港とそれをぐるっと取り囲む山々の景色が見えていたことでしょう。
様々な武将たちの勢力争いと思惑の中で平戸、横瀬浦、福田と移ってきたイエズス会宣教師たちが、キリシタン大名の所領であり、他勢力の襲撃にも備えられる「天然の要塞」とも言えるこの地に拠点をおいたことは非常にうなづけます。
当時、大村氏にとって脅威であった龍造寺勢力を牽制する為にも、この地にポルトガル船とポルトガル人が入ってくることはとても大きな意味がありました。
かくしてポルトガルという後ろ盾の元、カトリック信者たちを中心に「要塞都市」づくりが進んでいったわけです。
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歴史的背景はそのくらいにして、その「ポルトガル人とカトリック信徒が礎を築いた天然の要塞都市」の現在の様子を見ていただきたいと思います。
ここからは、気楽にその風景散歩を楽しんでいただければと思います。
港を囲む山裾には無数の道が迷路のようにつながりながら、どこまでも続いています。
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消えた学校、消えた子どもたちの声 ~ 蒼き海のキリシタンの里にあった神浦小学校大野分校

世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の中のひとつである大野教会は外海(そとめ)地方にある教会で、ド・ロ神父ともゆかりの深い教会ですが、建築様式が「この地に特有の強風から建物を守る」という意味合いから高い尖塔を持つゴシック様式でないためか、この地を巡る旅行者から発見されにくく、初めて訪れる人に「キリシタンの集落があった場所」と想像させることは、かなり困難となっています。
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それよりも人々は反対側、角力(すもう)灘の、どこまでも蒼い海の方に目を奪われてしまいます。
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誰もが気にも留めずに通り過ぎてゆく場所。ここに神浦(こうのうら)小学校大野分校がありました。
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消えた学校、消えた子どもたちの声 ~ キリシタンの里にあった神浦小学校扇山分校

ある1枚の写真から始まった今回の訪問。それは海ばかりの長崎県にはめずらしい、山の中の小さな分校の外海町・町報上の記事でした・・・。
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旧西彼杵郡外海(そとめ)町・・・。若き宣教師を描いた遠藤周作の小説「沈黙」の舞台にもなり、同氏の文学記念館も立つ同地方はド・ロ神父の活躍した場であり、今でも地元の信者から親しまれている場所です。

五島列島にあり、世界遺産の候補にあがっている多くの教会とその集落は、この外海地方のキリシタンたちが迫害を逃れ、小船で五島へと渡ったことから形成されたというものが少なくありません。

神浦(こうのうら)町はその外海町の中心にあり、神浦小学校は校舎の建つ段差には「ド・ロ壁」が見られるなど、今でも「キリシタンの里」という風情が色濃く残っています。
また神浦からは、かつて「九州最後の炭鉱の島」として平成13年まで操業を続けた池島の姿もよく見えています。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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