アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

軍艦島・西彼炭田の炭鉱

松島炭鉱大島鉱業所跡 ~ その①鉱業所

下図は、西海市大島にあった松島炭鉱大島鉱業所の当時の様子です。この炭鉱が、島をあげての産業であったことがうかがえます・・・
前身である大島炭鉱株式会社は大正6年の開坑、同9年に操業停止しています。その後、昭和10年に松島炭鉱株式会社により、大島坑が開坑されました。
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昭和45年に閉山。以来、41年が経過しています。昭和50年に撮影された航空写真では、まだ鉱業所跡が、はっきりと確認できますが・・・
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さすがに、現在では、確認できるものは、非常に少なくなってしまっています。どこでもそうですが、一番当時の姿のまま残っているものは、1に「石垣」です。2は「コンクリート」、3が「木材」の順になるでしょうか。
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日鉄 伊王島炭鉱跡 その2

かつての伊王島炭坑病院です。
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敷地の石垣だけが残されています。また、横の道は、上っていく角度が違うので、どうやら盛り土などで埋めてあるようです。
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ですから下の、配給米を担いで帰るお母さんたちと少年が通っていた道(右側が炭鉱病院)とその先のトンネル(切り通し?)は・・・・
伊王島切り通し099

こんな風に、上の方しか見られなくなっています・・・わかりますか?
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日鉄 伊王島炭鉱跡 その1

間もなく本土との間に橋が完成する伊王島には、昭和16年開坑の、日鉄伊王島炭鉱がありました。同37年の最盛期には人口7.600人を数え、島内には銀行、映画館、商店街などが建ち発展しましたが、47年の閉山以後、リゾートの島となり、また静かな島に戻っていました。
(画像は伊王島鉱の斜坑口)
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自転車レンタルのおばさんは、「何にも残ってないよ」と言ってましたが・・・
確かに閉山から、まだ37年・・と言っても
伊王島中学生108

この栄橋あたりには、その面影はまったくありません・・・・
本当に何にも残っていないのでしょうか。
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軍艦島になり損ねた島 ~ 中ノ島

軍艦島ツアーガイドをしていた時、軍艦島のすぐ横にある島(岩礁)、中ノ島について説明する際、「軍艦島の埋め立て前は、あの中ノ島よりも少し小さな島だった」と言うと、けっこう驚く人がいました・・・
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ツアーでは、軍艦島の手前にあるので、中ノ島について説明を始めますが、ゲストの皆さんは、見えてきた軍艦島の姿に釘付けで、おそらく説明も耳に入っていません・・・
関西や関東など、遠くから来た人も多かったので、それは無理からぬことですが・・・
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これは、炭鉱があった頃の中ノ島の姿です。おそらく軍艦島の北端から撮られています。2本あったという竪坑のやぐらや、おそらく発電所か製塩工場の煙突、そして住居群が見えています。
中ノ島鉱は軍艦島よりも早い明治17年に三菱社が買収し、操業を始めますが、わき水が多く明治26年には操業停止となった、短命の炭鉱でした。閉山後は、公園や、軍艦島で人が亡くなった時の火葬場として使われました。また軍艦島で亡くなった無縁仏も多数、この島に埋葬されたそうです。そういった意味では、鎮魂の島であるわけです。
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写真を見ると、驚くべきことに、住宅や施設群は、外洋側に面して建っています。海の荒れた時の恐怖感は、いかばかりだったろうか、と思うと、明治の先人たちのフロンティア・スピリットに対して、感嘆するばかりです・・・
ツアー客のほとんどが、そういったことを気にとめることもなく、通過していってますが、香焼島、横島、伊王島、高島といった途中に見える島々も、かつて先人たちが希望をかけて採掘に挑み、生活を守ってきた場所なのでした。
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「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧



九州最後の炭鉱「池島炭鉱」炭鉱体験のススメ

まず私の結論を述べておきます・・・「池島炭鉱体験」、軍艦島ツアーの10倍いいです!(私は、ですよ)

↓この島、池島ではありません。実は、昭和57年、まだ三菱高島鉱業所が操業を行っている頃の高島なのです。
軍艦島から、ほんの3kmぐらい手前にある、高島。もしこのような状態で今もあるとしたら、あなたは上陸したくないですか?・・・・・

残念ながら、高島では閉山後、鉱業所はもちろん、島内にあった鉱員アパートもほとんどが解体・撤去されてしまいました。
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これが同時期に撮影された、池島。こちらも、もちろん三井松島鉱業所池島鉱が操業中でした。
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で、これが現在の池島の俯瞰。くすんで見づらいですが、建物などはほぼそのまま残っているのが、おわかりでしょうか・・?
このような場所は、おそらく日本のどこにもないし(北海道では1鉱が稼働中ですが)、残されている鉱業所施設や炭鉱町、炭鉱アパート群などを見学できる場所という点では、まちがいなく唯一の場所と言えるでしょう・・・




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長崎で最後まで採炭した島~池島へ行こう

軍艦島ツアー・ガイドをしていたときに、ゲストの方から「炭鉱の遺構で、オススメの場所は?」とたずねられた時に、真っ先に紹介していたのが、↓この池島です。ある時、船の中で会った軍艦島研究で、ちと有名な?オープロジェクトのメンバーも、ここがお勧めだと、言っておりました。
画像は、昭和57年頃、まだバリバリに操業中の池島の様子です。
長崎県の最後の炭鉱として、平成13年まで操業を続けた島ですが、お勧めの第一の理由は、現在も、下の画像に見られる施設が、ほとんど残っている~つまり、行けば見られる・・ということです。
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私の場合は、連載の取材で、この島を訪れたことが、「炭鉱」「炭鉱町」そして「炭鉱町に住んだ人々」との大きな出合い・・となりました。
もし、ここが閉山後、無人の島となっていたとしたら、まずここへ取材に行くことも無かったし、出合いというものもなかったと思います。
島に残る鉱員アパートは、ほとんどが無人となっていますが、実はまだ人が住まれているアパートもあるのです・・・・・
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軍艦島への上陸がなぜ難しいか

通常、「島への上陸」と言いますと・・・・船が島へ近づくと、大きな防波堤に囲まれた港へ入っていき、水深も浅くなるので、海は急激に穏やかになる・・・というパターンです。海が少々荒れていても、上陸する第1歩は、海の上に浮かんでいる浮き桟橋なので、ほとんど問題なく上陸できます。

しかし、軍艦島のツアー上陸地点は下図の赤い部分、ドルフィン桟橋ですが、通常の港とは形状も構造もまったく違うことはおわかりだと思います。
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では、なぜ他の島のように防波堤や浮き桟橋を造らないか?
・・・答えは簡単です。造れないからです。

もともと軍艦島(端島)がある場所は、現在の面積の約1/3(資料によっては1/6という説も)であり、とても「島」とは呼べない、小さな岩礁にすぎませんでした。
その為、水深があり、潮流早く、もし防波堤や浮き桟橋を作ったとしても、翌朝にはなくなっているかもしれません。

現在、ツアーのお客さんが上陸しているドルフィン桟橋は海底を掘り下げて石積みの基礎を固め、コンクリートで構築してあります。形状もエンジニア達が練りに練ったもので、言うならば「炭鉱エンジニア達の血と汗の結晶」なのですが、このドルフィンですら、3代目(昭和37年製)であり、1,2代目は台風で流されています。
つまり軍艦島は、島と言うよりも、「海上都市」であり、そういう場所へ上陸するのだと考えてください。









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第2ながさき

高島町史に載っていた「端島・高島・伊王島に通った船舶」の中の1隻として紹介されていた「第2ながさき」
私が小学校4年生の夏、ねずみ島へ通った時に乗ったことを覚えています。この第2ながさきは、エアコンのない「ながさき」に比べて、エアコンもテレビもついていたので、ねずみ島の桟橋で待っているときに、この第2ながさきがやってくると、よろこんだものでした。
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小学生の頃、まだ軍艦島の炭鉱は操業中でした。野母崎から軍艦島の姿が見えると、「あの軍艦島は、戦争中、軍艦と間違えられて、爆弾を落とされたんだ」・・・ぐらいにしか思っていませんでした。
ずっとそこにあったのに、ずっと出会えていなかったということです。
そして私と軍艦島の再接近ポイントは、わずかにこの「第2ながさき」だけだったわけです・・・。
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当時、端島や高島へ向かう船上から、ねずみ島で泳いでいる何百人という小学生たちの姿が見えたのでしょうか・・・・・


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「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧



炭鉱で賑わった島、高島を歩く

1000記事目ということで、少々厚みのあるやつを書こうと思います。
どんどんスクロールしてください!

軍艦島ツアー・ガイドをいったんやめる時に思ったのは、「一度高島をじっくり歩かないといけない!」ということでした。・・・というのも、ツアーでは軍艦島上陸前、高島に寄って石炭資料館を案内するのですが、時間が正味15分くらいで、あまりに駆け足なので、どちらかというと「軍艦島上陸前のWCと水分補給、そして喫煙タイム」といった感じでした。
その上、ゲストを盛り上げるために、高島についてのジョークもとばしていたので、心中では、「これじゃいかん」という思いがありました。
船を降りた翌日、ともかく島を歩いてみることにしました。

上陸後、看板を見て、自転車を借りることに。電話すると、店の前にあるから、適当に選んで乗っていけ・・・と。ほとんど借りる人もいないのか、まともに動きそうなのは、7~8台のうち、2台くらいでした。
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ツアーでも説明していましたが、これが高島に一個所だけある信号機です。ほとんど必要がないように見えますが、実はこれ、島の子どもたちの教育用の信号なのです。
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歩き始めると、すぐにかつての炭鉱町の名残・・・つまり空き地の間に階段や通路だけが残っているという景色にえんえん出合います。
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岩崎弥太郎が、この島にあった炭鉱を買収し、T・グラバーの助力を得て、近代化に成功。今ある「三菱」の始まりの島とも言えるこの高島は、最盛期には15,000以上の人口を抱える、昼も夜も賑わいの絶えない島でした。
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かつての共同浴場が、草むらの中に、ひっそりと残されていました。
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浴場の上方には、蛎瀬アパートが見えています。アパートとは言え、まだお風呂のついていない時代でしたから、この浴場も多くの人で賑わったことでしょう・・。
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教会が見えたので、坂の小径を上ってみます。
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高島カトリック教会です。
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付近の小径を歩いていると、一匹のニャンコと目が合いました。「ニャンだ、お前は?」というように、こちらを見ています。
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そのニャンコがガイドをつとめてくれたのが、付近にある、この空き地です。住居の名残が一部、残っていました。これは台所の水まわりですね。
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そして、これは、どうやらWCとお風呂のようです。
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で、これが玄関の敷石のあと・・・。
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家は、こういう場所に立っていました。なるほど、台所の窓から、港がよく見えるようになっています。(ニャンコ・ガイドは日陰で待機しております)DSCF3917

夕げの支度をしながら、だんなさんの船が帰ってくるのが、よく見えるような構造になっていたわけですね。
古い港町の家というのは、こういう夫婦をつなぐ「夫婦窓」があったというのを聞いたことがあります。
だんなさんからも、家の灯が、遠くからもよく見えたことでしょう・・・
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家の前の通路には、水を流すための溝がきってあったり・・・ひとつの空き地から、いろいろな、かつてのヒトの暮らしが浮かんできました。ニャンコくん、ありがとう!(ちっちゃく写ってます!)
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移転した、高島小中学校です。この時は、運動会前の練習なのか、全校児童がグラウンドへ出ていました。保育園のこどもを加えても10人あまりしか姿がありません。トラックがやけに広く見えるのも、さびしく見えます。
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これは蛎瀬保育園の写真です。蛎瀬地区だけでも、これだけの園児がいたわけです。
蛎瀬保育園304

かつての商店街跡です。
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こういう画像を掲載するのは、正直胸が痛いです。ただし、このような状況は、ここ高島に限らず、日本全国の地方で似たようなものであると思うのですが・・・・。
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三菱高島鉱業所の2個所の坑口のうちの1つ、蛎瀬(かきせ)坑跡です。施設はすべてなくなっていますが、まだ辺りには石炭片が散らばっています。遠く沖合に軍艦島が見えています。
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かつての蛎瀬坑・竪坑やぐらです。この場所も定かではありませんが、フェンスで囲まれた場所が、おそらくその場所であると思われます。もちろんフェンス内には何にも見えません。(画像は現在ではありません)
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蛎瀬から、もうひとつの坑口、二子(ふたご)坑のあった場所への道路です。
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この道は、かつて蛎瀬街道と呼ばれ、軌道が敷設され、通勤電車や石炭を運ぶ貨車が走る時代もありました。
蛎瀬街道

このあたりからは、軍艦島と中ノ島がよく見えます。昭和49年までは、夜ともなると、光り輝く「不夜城」が、お互いによく見えていたことでしょう。
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その先に見えてくるのが、7階建てというのに、エレベーターのない高層アパートです。
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しかし、住んでおられるのは、ご覧の通り、3~4階までで、空室となっている場所には、板が打ち付けられています。つまり、これ以上人が転入してくる見込みが非常に薄いということを示しています。
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掲示板ドアには運動会の案内チラシが貼ってありました。住人みんなが参加して盛り上げる運動会になっているわけですね。
ちなみに、この運動会の日は、よいお天気でしたので、大変賑わっただろうと思います!
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二子坑の坑口跡です。コンクリート製の坑口付近が残っています。
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そろそろ島を一周します。このあたりは、光町と呼ばれ、多くの炭鉱住宅や鉱員アパートが立ち並んでいた場所です。
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遠くに見えるのが、かつての二子坑・竪坑やぐらです。
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現在、この場所には、比較的新しい時代のアパートが立っています。天気がよいので、ふとんがたくさん干されています。
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かつての鉱業所の事務所あとを改造した石炭資料館です。そしてここは、半年の間説明を行った場所です。
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現在では、完全に軍艦島の陰に隠れる・・・といった状態に置かれている高島ですが、いつか必ず、この島が注目される時が来るだろうと思っています。
そしてまた、いつかこの島をゆっくり歩いてみたいと思っています。きっと、また新たな発見があるだろうから・・・。



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長々とお付き合い、ありがとうございました!


「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧




















端島小中学校同窓会、軍艦島に上陸

10/24、端島小中学校の同窓会メンバー約70人が上陸したそうです。一行は特別な許可を得て、普段は立ち入れない小中学校・校舎前まで歩いたそうです・・・。(10/25付 長崎新聞)
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「よかったねぇ・・!」って心から思います。

この校舎は、「年間100日程度しか上陸の見込めない人口島」に立っていたからこそ、閉山後36年後の今も存在しているわけです。

そもそも「炭鉱」という場所は、付近の石炭層を掘り尽くした時点で閉山するのが、逃れようもない運命ですから、長崎県内や筑豊などにあった数百という炭鉱は、「そこに炭鉱があったことすら知られていない」ほど、跡形もなく無くなっています。

炭鉱APではなくても、私の故郷であるAP群は、とうの昔に取り壊され、今では大型商業施設が建っています・・。
今では、写真の上でしか確認することができません。前、図書館で「昭和57年に撮された空撮写真集」にたまたま、そのAP群を見つけることができました。
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矢印のピンクの矢印の場所が、私が幼い頃を過ごした「隼棟・3号室」です。写真では、当時の家族の方が白い布団を干しているのがわかります。これだけを見ても、前住人として、うれしい気がします・・・。

そしてやはり、軍艦島や他の炭鉱住宅街と同じく、付近に商店、市場、公衆浴場、映画館などが寄り添うように建っており、我々子ども達にとっては、非常にあたたかな住みやすい街となっていました。

その街は軍艦島風?にすると、こんな感じでしょうか・・・・・
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かつては、こういうあたたかな「軍艦島」のような場所が炭鉱町に限らず、そここにあり、その集合体が都市を形成していたように思います。

一方では、「新興善小学校」のような、長崎市民にとって大きな意味のある校舎などを保存できなかったということは、甚だ残念です。そして尚、浪の平小や活水高・被爆校舎等もやがて我々の目の前から永久に消え去ろうとしています・・・・・。

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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
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