善長谷教会。 ぜんちょうだに教会。
この名を知った時、とても大きなインパクトがありました。
「異教徒」を指す、キリシタンの言葉、それは「ゼンチョ」だからです。
従って、なぜ仏教徒の地名がある場所にカトリック集落と教会があるのか。
それを知る手がかりは、現地に向かえば、何か掴めるのか?
それを知ることが、怖いような気がして、長い間向かうことができませんでした。
深堀から西海岸沿いを蚊焼方面へ向かい、「善長谷」バス停から山側の細い道に入ります。
小径は山の奥へ奥へと続いてゆきます。特に大きな集落や耕作地も見あたらず、この場所の地形が、地名の通り、平坦な場所がほぼない谷地であることがわかります。
「道を間違ってないだろうか」と不安になる頃、やっと善長谷教会が姿を現します。
昭和27年に再建されたという聖堂は、オーソドックスな造りですが、白とベージュの配色が、青空によく映えています。
外海に面し、山の上に立つ為か、コンクリート造でがっしりした造りに見えます。
また、素晴らしいのが何といっても、教会の立つ高台からの眺めです。アンゼラスの鐘の吊された大樹の向こうには元炭鉱の島々の浮かぶ角力灘が一望できます。
左手の方から、端島(軍艦島)、高島
そして、右の方にいって海中に没した横島、もっともカトリック教徒の割合が多いと言われた伊王島、そして香焼島。全て炭鉱の島です。
せっかくなので、横島炭鉱について少し触れておきます。
高島、端島は江戸後期から路頭掘りをするなど、採炭の歴史は深いのですが、上画像のように今はただの岩礁となっている横島にも、炭鉱だけでなく、病院や学校まである近代的な施設がありました。
下は、上の写真と同じ場所のものです、明治33年に撮影されたものです。
発電所の煙突も見えるようですが、記録によると、横島に電気がついたのは、明治32年と、近隣地区で最も早く、古老によると「夢の島が海にうかんでいるように見えた」ということです。きっと、善長谷に住んでおられた方々も、海に浮かび輝く、この夢のような光景に驚いたことでしょう。
「三菱横島炭鉱(内部リンク)」
さて、問題のなぜ、この善長谷と言われる場所にキリシタンの人たちが移住したのか?教会の前に立つ案内板を見てみます。
この文章を読むと、大筋は理解できるのですが、そもそも何故文化年間に旅芸人を装ってキリシタンの人々が移動せざるをえなかったかがわかりません。
筆者も、その歴史的背景を掴むのに、多くの時間を割かざるを得ませんでした。
詳しく書くと、かなりの長文になってしまうので、非常に乱暴にざっくり書くと、以下のようになります。
『キリスト教(カトリック)伝来後、秀吉の禁教令で同教は禁止されたが、信徒たちは密かに潜伏し信仰を守り続けた。長崎にはかつてカトリック信徒であふれた大村藩領と深堀、出津、黒崎、三重、諫早などの佐賀鍋島藩領が混在したが、特に江戸徳川時代、内海(うちめ)と呼ばれた大村藩領でカトリックへの取り締まり・弾圧が激しくなり、樫山から佐賀鍋島藩領であった深堀、香焼、伊王島、蔭の尾島へと移住した。善長谷は深堀地区の山間部にあたる。』
最初にここへ移住したキリシタン達が持っていたのは、マリア菩薩と小さなメダイだったと言います。明治6年に禁教令が解かれるまでのキリシタン達の信仰と受難の歴史、これは本当に「世界遺産級の史実」と言っていいだろうと思います。
聖堂に射してくる陽は、信仰そのもののように思えます。
信徒の方の聖書と賛美歌集とヴェール。信仰は今も尚、受け継がれています。
そういった想いを知った上で、信徒達が迫害を逃れるために小舟で渡った海を眺めると、ことさらに感慨深いものがあります。
さて、次に本題でもある、「なぜここが異教徒を表す善長谷と呼ばれるか」についてです。案内板にあるように、はっきりした理由は判りませんでした。そこで、自分なりにこの理由について考えてみることにしました。
故・片岡 弥吉著「長崎のキリシタン」(聖母の騎士社)によると、黒崎の信者が地元郷民からもはげしい差別と迫害を受けたことが記されていますが、この中で信者として捕らえられた者が出た家は郷民から「こんぴ寺」と呼ばれたといいます。「こんぴ」とは、キリシタンの言葉、「コンピサン(告白)」をもじったものであることから、わざとキリシタンの言葉で「異教徒」にあたる「ゼンチョ(善長)」という地名を付けて辱めようとしたのではないかという可能性もあります。しかし、これはあくまで私個人が推測したもので、なんら根拠のあるものではありません。
しかし、もしそうであるとしたら、旅芸人を装い、仏教の檀家となり、その務めを果たしながらも密かに信仰を守り抜いたその信仰心は確かに世界遺産に値するものだと感じます。
教会の裏手には「ルルド」があります。
1858年にフランス・ルルドで、ベルナデットという少女の前に聖母が姿を現し、そこに難病を治す奇跡の泉が湧き出たという伝説をもとに世界中につくられたもので、信者の方にはとても大切な場所です。
聖母像は天を見つめています。
ベルナデットの像でしょうか。聖母マリアに向かい一心に祈りを捧げています。少女像の背後に見えるのが泉です。
あらためて、教会の立つ高台から眼下を望みます。そこには鬱蒼とした森とわずかな畑地に菜の花が咲くばかりです。善長谷は農業集落であったそうですが、はたしてこのような地形の土地でどのような作物が取れたのか、想像することは難しいと感じました。「善長いも」という特産品名があることから、わずかな土地を耕作し、芋などを作ったことは推測できますが、それにしてもその暮らしは大変なものであっただろうと思います。
途中に見える集落を失礼ながら撮らせて頂きました。写真に見えるように、家々は寄り添うように立ち、それこそ助け合い、支え合ってきたのだろうと思います。
道の途中から見た、善長谷の海岸よりの場所。家屋などはほとんど見えず、手前には誰かが植えたのか、枇杷や柑橘類の木がぽつんと取り残されたように立っていました。
谷が海に落ちる場所も、船が付けられるような地形ではありません。目の前には炭鉱の島々が見えていますが、佐賀鍋島藩によるキリシタン弾圧もはげしいものがあり、捕らえられた信徒達は昼は炭鉱で重労働をさせられた後、昇坑後は算木責め、割れ木叩きなどの拷問を加えられたとあります。
禁教が解かれた後、この地区に多く栄えた炭鉱や造船所で働く人があったかどうかについては、もっと長い時間をかけて調べていかないとわからないことです。
その海岸に近いところから谷を見上げると、山の上の方に、ぽつんと白い善長谷教会の十字架が見えています。ここから見ても、谷はとても集落のある場所だとは思えないほど鬱蒼と木の生い茂る谷間だということが、よくわかります。
長崎市の市街地からほど遠くない場所にあって、これほどキリシタンの受難と信仰の強さを感じさせる教会は他に無いように思います。
ただ建物や資料だけをみるのではなく、実際にこの地に立って、長崎のキリシタンの歴史というものに触れて頂きたいと思います。
夕陽もすばらしい場所ですので、機会がありましたら、ぜひ一度は訪ねて欲しいです。
参考文献
「長崎のキリシタン」 片岡 弥吉著 (聖母の騎士社)
「長崎遊学 2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 (長崎文献社)
参考サイト
「旅する長崎学」
wikipedia
「道を間違ってないだろうか」と不安になる頃、やっと善長谷教会が姿を現します。
昭和27年に再建されたという聖堂は、オーソドックスな造りですが、白とベージュの配色が、青空によく映えています。
外海に面し、山の上に立つ為か、コンクリート造でがっしりした造りに見えます。
また、素晴らしいのが何といっても、教会の立つ高台からの眺めです。アンゼラスの鐘の吊された大樹の向こうには元炭鉱の島々の浮かぶ角力灘が一望できます。
左手の方から、端島(軍艦島)、高島
そして、右の方にいって海中に没した横島、もっともカトリック教徒の割合が多いと言われた伊王島、そして香焼島。全て炭鉱の島です。
せっかくなので、横島炭鉱について少し触れておきます。
高島、端島は江戸後期から路頭掘りをするなど、採炭の歴史は深いのですが、上画像のように今はただの岩礁となっている横島にも、炭鉱だけでなく、病院や学校まである近代的な施設がありました。
下は、上の写真と同じ場所のものです、明治33年に撮影されたものです。
発電所の煙突も見えるようですが、記録によると、横島に電気がついたのは、明治32年と、近隣地区で最も早く、古老によると「夢の島が海にうかんでいるように見えた」ということです。きっと、善長谷に住んでおられた方々も、海に浮かび輝く、この夢のような光景に驚いたことでしょう。
「三菱横島炭鉱(内部リンク)」
さて、問題のなぜ、この善長谷と言われる場所にキリシタンの人たちが移住したのか?教会の前に立つ案内板を見てみます。
この文章を読むと、大筋は理解できるのですが、そもそも何故文化年間に旅芸人を装ってキリシタンの人々が移動せざるをえなかったかがわかりません。
筆者も、その歴史的背景を掴むのに、多くの時間を割かざるを得ませんでした。
詳しく書くと、かなりの長文になってしまうので、非常に乱暴にざっくり書くと、以下のようになります。
『キリスト教(カトリック)伝来後、秀吉の禁教令で同教は禁止されたが、信徒たちは密かに潜伏し信仰を守り続けた。長崎にはかつてカトリック信徒であふれた大村藩領と深堀、出津、黒崎、三重、諫早などの佐賀鍋島藩領が混在したが、特に江戸徳川時代、内海(うちめ)と呼ばれた大村藩領でカトリックへの取り締まり・弾圧が激しくなり、樫山から佐賀鍋島藩領であった深堀、香焼、伊王島、蔭の尾島へと移住した。善長谷は深堀地区の山間部にあたる。』
最初にここへ移住したキリシタン達が持っていたのは、マリア菩薩と小さなメダイだったと言います。明治6年に禁教令が解かれるまでのキリシタン達の信仰と受難の歴史、これは本当に「世界遺産級の史実」と言っていいだろうと思います。
聖堂に射してくる陽は、信仰そのもののように思えます。
信徒の方の聖書と賛美歌集とヴェール。信仰は今も尚、受け継がれています。
そういった想いを知った上で、信徒達が迫害を逃れるために小舟で渡った海を眺めると、ことさらに感慨深いものがあります。
さて、次に本題でもある、「なぜここが異教徒を表す善長谷と呼ばれるか」についてです。案内板にあるように、はっきりした理由は判りませんでした。そこで、自分なりにこの理由について考えてみることにしました。
故・片岡 弥吉著「長崎のキリシタン」(聖母の騎士社)によると、黒崎の信者が地元郷民からもはげしい差別と迫害を受けたことが記されていますが、この中で信者として捕らえられた者が出た家は郷民から「こんぴ寺」と呼ばれたといいます。「こんぴ」とは、キリシタンの言葉、「コンピサン(告白)」をもじったものであることから、わざとキリシタンの言葉で「異教徒」にあたる「ゼンチョ(善長)」という地名を付けて辱めようとしたのではないかという可能性もあります。しかし、これはあくまで私個人が推測したもので、なんら根拠のあるものではありません。
しかし、もしそうであるとしたら、旅芸人を装い、仏教の檀家となり、その務めを果たしながらも密かに信仰を守り抜いたその信仰心は確かに世界遺産に値するものだと感じます。
教会の裏手には「ルルド」があります。
1858年にフランス・ルルドで、ベルナデットという少女の前に聖母が姿を現し、そこに難病を治す奇跡の泉が湧き出たという伝説をもとに世界中につくられたもので、信者の方にはとても大切な場所です。
聖母像は天を見つめています。
ベルナデットの像でしょうか。聖母マリアに向かい一心に祈りを捧げています。少女像の背後に見えるのが泉です。
あらためて、教会の立つ高台から眼下を望みます。そこには鬱蒼とした森とわずかな畑地に菜の花が咲くばかりです。善長谷は農業集落であったそうですが、はたしてこのような地形の土地でどのような作物が取れたのか、想像することは難しいと感じました。「善長いも」という特産品名があることから、わずかな土地を耕作し、芋などを作ったことは推測できますが、それにしてもその暮らしは大変なものであっただろうと思います。
途中に見える集落を失礼ながら撮らせて頂きました。写真に見えるように、家々は寄り添うように立ち、それこそ助け合い、支え合ってきたのだろうと思います。
道の途中から見た、善長谷の海岸よりの場所。家屋などはほとんど見えず、手前には誰かが植えたのか、枇杷や柑橘類の木がぽつんと取り残されたように立っていました。
谷が海に落ちる場所も、船が付けられるような地形ではありません。目の前には炭鉱の島々が見えていますが、佐賀鍋島藩によるキリシタン弾圧もはげしいものがあり、捕らえられた信徒達は昼は炭鉱で重労働をさせられた後、昇坑後は算木責め、割れ木叩きなどの拷問を加えられたとあります。
禁教が解かれた後、この地区に多く栄えた炭鉱や造船所で働く人があったかどうかについては、もっと長い時間をかけて調べていかないとわからないことです。
その海岸に近いところから谷を見上げると、山の上の方に、ぽつんと白い善長谷教会の十字架が見えています。ここから見ても、谷はとても集落のある場所だとは思えないほど鬱蒼と木の生い茂る谷間だということが、よくわかります。
長崎市の市街地からほど遠くない場所にあって、これほどキリシタンの受難と信仰の強さを感じさせる教会は他に無いように思います。
ただ建物や資料だけをみるのではなく、実際にこの地に立って、長崎のキリシタンの歴史というものに触れて頂きたいと思います。
夕陽もすばらしい場所ですので、機会がありましたら、ぜひ一度は訪ねて欲しいです。
参考文献
「長崎のキリシタン」 片岡 弥吉著 (聖母の騎士社)
「長崎遊学 2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド」 (長崎文献社)
参考サイト
「旅する長崎学」
wikipedia
色々と勉強になるサイトで大変興味深く拝見しております。
善長谷教会はちょっと前にBSプレミアムの番組で知りました。
信者のかたが協力し合い教会のメンテナンスをされていました。
23まで長崎にいましたが初めて聞く町名と教会です。
そしてまた、こちらのサイトで善長谷教会について勉強させていただきました。
ありがとうございます。
文章の中で「相撲灘」と記載がありますが「角力灘」ですね。
変換ミスと思いますが念の為、ご指摘させていただきます。