昭和初期頃まで、各炭坑の坑道内で使われていたという「坑内馬」。その坑内馬に関する記録はほとんど存在しないのですが、北部九州に炭田が分布していたことと、馬の体格と気質、能力を考えると、対馬産の対州馬が使われないはずは無いとずっと思っていました。

そしてその悪い予感は残念ながら一冊の本、「坑内馬と馬夫と女坑夫」 武松輝男著 創思社出版によって証明されたばかりではなく、その実態たるや身の毛もよだつような残虐かつ悲惨なものであったということが明らかになりました。
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『 坑内馬ネー、私はそのときはまだ小さかったんで詳しいことはわからんが、対州馬、対馬の馬ですたいな、それと島原馬を取り扱っていたことは知っとります。背の高さは五寸五寸と言っとりました。四尺五寸のことで、今の寸法で136センチぐらいですたいな。こまぁか馬でしたバイ・・・・ 』
 
これは祖父が坑内馬の売買を生業にしていたという方の証言です。大資本の三井三池炭坑では、昭和の初め頃まで、坑内の石炭運搬に対州馬と島原馬(現在は絶滅)が使われていたということです。

証言には「島原馬」ともありますが、島原馬は馬車などを曳く、割と大きな馬だったと聞いたことがあるので、天井が低く、勾配がある足場の悪い坑内作業を考えると、やはり対州馬が主に使われたのではないでしょうか。


「粗食に耐え、小柄の割に力が強く、性格は温厚で従順」この特質が炭坑にとってはうってつけだったということですね。

何千(或いは何万?)という馬たちは、馬たちは一度坑内に下げられると、二度と地上に上げられることはなく、気温40℃、湿度95%、ガスや細菌の蔓延する、昼も夜もない、季節もない暗闇の中で平均2年あまりという短い年月で、弱り果て、苦しんで苦しみ抜いて死んでいっています。

作業中の状況たるや、悲惨なもので、同書内の表現を借りると、以下のようなものとなります。

『 一頭の馬が一回に運ぶ距離は、片道で307m、これを炭函(車)を曳いて28分費やしている。 10mの距離を1分もかかる。坑内というところは底盤は殆ど岩盤で、しかも凹凸があって平坦な道筋ではない。レールにしても、いま私たちの目の前にあるようなあの頑丈なものでもない。炭車の車輪もベアリングの車軸ではない。 坑道の要所要所に設けられた燈火にしても、今のような昼光色ではない。そういう軌道上を、背丈の低い矮小馬が重たい炭函を、10mを1分も費やしてあえぎあえぎ曳いた。 』

『 坑内はですな。ひらったか道ばかりじゃなか。上がり坂もあるが、下り坂もありますタイ。 上り坂を馬に曳かせて上る時には”ソラー!”チ、馬に気合いバ入れんといかん。 そんとき、手で馬の尻を叩こうもんなら、馬も人も汗ビッショリになっとるもんで、汗が飛び散ってワタシン顔にかかっとデス。そいけん私は竹ヒゴ持っといて、それで馬ン尻バ叩こりました。 馬ン口には白かねばっこか泡ンつこりました。馬はきつかったっでしょナ。 (中略)
馬に曳かせんと、馬方は金にならんもんですケン、少々くたびれとるとわかったっチ、叩いてでん曳かせよりました。ハイ 』

馬たちは、唯一食事だけが楽しみだったと思うのですが、その食料さえ馬夫たちにピンハネされて、ろくに食べられなかったといいます・・・・

平均2年で死んでいくということは、たった数ヶ月で衰弱死したり事故死したりする馬も多かったのでしょう。ならばある一定期間が過ぎたら、地上に上げて回復させれば良いのではないかと思いますが、そういうことはいっさいなく、死ねばその分をまた補充しただけということですから、坑内馬として使われた対州馬たちは、「生き物」としてでなく、「働き手」でもなく、ただの「取り替えの効く消耗品」として扱われたのだということがよくわかります。

人類史上、これほどにむごたらしい動物虐待は他にないかもしれません。



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坑内で死んでいった馬たちの分までとは言いませんが、今、絶滅寸前まで追い込まれながらも、健気に生きる対州馬たちには、少しでも季節のものをいろいろと味わわせてやりたいと思うのです・・・・・