2015年現在、映画化された「ホビットの冒険」シリーズと「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」シリーズの世界的なヒットについては、今更ここで繰り返し述べる必要もないと思いますが、その原作者であるJ・R・R(ジョン・ロナルド・ロウエル)・トールキンについては、さほど知られていないように思います。
特にその生育暦については、現代においても尚、参考になる部分が少なくないと思い、稚拙さはまぬがれないものの記事にて紹介してみたいと思いました。

↓は30年ほど前に買った、「指輪物語」の文庫本です。この時初めて目にしたトールキンの横顔は、「何となくいい笑顔をしたお年寄りだなぁ・・・」ぐらいのものでしかありませんでした。
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J・R・R・トールキンが生まれたのは、1892(明治25)年のオレンジ自由国、ブルームフォンテーン。(注:現在の南アフリカ共和国の一部。この時代はイギリスがオランダ系移民等であるボーア人(ブール人もしくはアフリカーナ)との戦争に敗れた第1次ボーア戦争から約10年が経過していた頃になります)
ドイツ系イギリス人で銀行員であったアーサー・トールキンと、やはり同じイギリス人であったメーベル・サフィールドの間の第一子としてこの世に生を受けています。
下の写真はブルーム・フォンテーンで撮影されたトールキン一家のスナップで、右端の女性に抱かれているのが生後10ヶ月のロナルド・トールキンです。正確に記すならば、左から父アーサー、召使の女性、母メーベル(手前中央)、下男、乳母ということになります。しかし、この一枚の葉書には多くの「意味合い」を表しています。

まず南アフリカと言えば、あのアパルトヘイトを想起します。この時代アパルトヘイトは当然存在しませんが、その素ともなったヨーロッパ諸国の植民地支配と有色人種支配は既に当然という時代でもありました。その時代に一家のスナップに召使や下男までもが家族と同様に写りこむということは、本人たちにとってさえ、少なからず驚きであったといいます。この背景には1833年に大英帝国で制定された「奴隷制度廃止法」も勿論ありますが、現地で目にしたボーア人達の有色人たちへの態度をトールキン夫妻が苦々しく思っていたという背景があったのでした。
つまりここに写りこんだ人たちは、ロナルドにとっては「家族」というわけで、向かって彼の左側に「写るもの達」は、今後生涯にわたって、かけがえの無い家族ということになっていきます。

また写真の周りに書かれた装飾性の高いレタリング『 A November Morning in The Orange Vry Sraat Taken by our・・・・』は、母メーベルの直筆であり、見ての通り型にはまらない、優雅で伸びやかなものでした。
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2年後には弟ヒラリー・トールキンも生まれ、ブルーム・フォンテーンでの一家の暮らしは、順調にいくはずでしたが、そうはなりませんでした。
丈夫な赤ん坊であったヒラリーに比べ、ロナルドは線の細い子どもで、知恵熱がもとで調子を狂わせてからは、毎日のように熱を出して、医者を呼ばなくてはならず、メーベルはすっかり疲労困憊するところとなりました。
幼いロナルドの体調を壊す、大きな原因のひとつが、ブルーム・フォンテーン特有の「夏は灼熱で、冬は乾ききって寒い」気候でした。


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こういう場合、大抵は体の弱い子どもをまず、どうにかして順応させるということを考えるのだと思うのですが、メーベルは違いました。仕事や土地よりもまず、子どもを第一に考え、祖国へ戻ることを決めています。幼子二人を連れて、少なくとも8000km以上の船旅をしたことになります。
そして結果的にそのことがロナルド・トールキンのその後の運命を決定づけることとなりました。

オレンジ自由国にとっては「よそ者」銀行である、イギリス系の銀行の支配人であった父アーサーは、ダイアモンド鉱や金鉱の開発計画に専心するために、独りブルーム・フォンテーンに残りますが、一年と経たないうちにリューマチをこじらせ、死去してしまいます。

アーサーが遺した遺産は、母子3人がぎりぎりの生活をするのにも十分なものではなかったのですが、メーベルは子ども二人を育てる為に、居候していたバッキンガムの両親の家を出て、セアホール村に移り住みます。
子どもを中心とした、この第二の決断が、トールキンの運命をいよいよ決定的なものにします。
まさに物心ついた頃からの4年間を、この「ホビットの冒険」或いは「指輪物語」の世界そのもののような、牧歌的な自然の広がる風景の中で過ごします。
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そして更にメーベルの第三の決断は、彼女自身が教育を我が子に施すことでした。彼女自身が元から身に着けていたラテン語やフランス語などの語学やカリグラフィ、音楽、絵画等を息子たちに教えています。
とりわけロナルドは語学と絵画に秀でていることに気付いたメーベルは、多くの物語の書物に触れさせました。
その後、数々の奨学金を得て進学し、オックスフォードを卒業し、英語学の教授となり、そして「ホビットの冒険」と「指輪物語」の出版。その後の輝かしい栄光はおそらくご存知の通りです。

しかしロナルドの運命を決め、最良の教育を与えた母、メーベルはその後の栄光などつゆ知らず、わずか34歳(ロナルド12歳の時)で糖尿病により、この世を去っています。
標題の通り、J・R・R・トールキンの才能の端緒を開いたのは、伝統的なアカデミズムではなく、貧しいながらも我が子を深く愛し、よく理解した母親の家庭教育によるものでした。

(画像はロナルド・トールキンが書いた「指輪物語」の1頁。モリア坑道への入口を描いたというイラストは、母メーベルのデザインを連想させます)
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また、もうひとつのメーベルの決断は、またもやロナルドのその後の人生に大きな影響を及ぼすこととなっています。
それは、考え抜いた末、親族一同の猛反対を押し切ってカトリックに改宗したことでした。自分の余生が長くないと察した時に、彼女は信頼するフランシス・モーガン司祭を二人の子どもの後見人に任命しましたが、その先見の明は確かなもので、懸命な司祭のおかげで二人はその後も精神的にも経済的にも苦しむことなく成長を続けることができています。

またその縁もあって、若きトールキンは、生涯の伴侶となるエディス・ブラットと出会いました。

↓17歳の頃のエディス・ブラット
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19歳の頃のロナルド・トールキン (二人が出会った頃、エディスはロナルドより3歳年上であった)
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ロナルドと結婚した、27歳の頃のエディス・ブラット。不思議なことに今に残されている写真は、ロナルドは向かって左を向き、エディスは右を向いているものが多いような気がします。
幼少期にブルーム・フォンテーンで撮られた写真の位置関係を思い出してしまいます。
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1966年の二人。
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三人の子どもとトールキン夫妻。ここでもロナルドは右端に座っています。
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エディスの死後、最後に撮られたトールキンの写真。ここでも神秘的な存在の象徴であり、家族の象徴であるヨーロッパ黒松の向かって右側に立って写っています。そこは記憶に無い自分自身の父母や愛した子どもたち、家族が写っていた場所でした。
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物心がつき始めた頃、トールキンが母から受けた深い愛情は、生涯彼の中に行き続け、自分もまた子どもたちに与え続けています。
トールキンの著書「ファーザー・クリスマス サンタ・クロースからの手紙」は自身が約20年間にわたって自分の子ども達に書き送り続けた手紙(ゴブリンやエルフ等が登場する物語)を収録したものです。
そもそもトールキンが物語を書き始めたのも、彼の子どもたちに読み聞かせるためでした。

「サンタ・クロースからの手紙より」の中に収録してある実際の書面を見ると、やはり母メーベルがブルーム・フォンテーンで描いた葉書からの繋がりを感じてしまいます・・・・。
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