「長崎の十字架山」の所在地を、一体どれくらいの方が知っておられるだろうか?という思いがありますが、そもそも十字架山の存在を知っておられることすらあやしい今日であるかもしれません。

しかし、下図のように昭和30年頃の長崎電気軌道さん(路面電車)の案内図には、かくも堂々と「十字架山」の存在が示されています。
(ちなみに、この頃は運行されていた電鉄バス路線図や、「井樋の口」や「千馬町」といった懐かしい電停、競輪場なども見えます。※以下クリックで拡大)

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案内図からも戦後復興めざましい長崎の様子がうかがえますが、片岡 弥吉著 「長崎のキリシタン使徒たち」によりますと、浦上一体がまだ住宅化の波の押し寄せていない、素朴なキリシタン農村であった頃は、汽車がこの地に入ると、小さな丘に立つ十字架が目に入ったといいます。これが当時、ポルトガル語の伝来のまま「クルス山」と呼ばれていた十字架山なのです。
当時、長崎を汽車で訪れた多くの方がまず目にしたその光景こそが、旅の序章として旅愁を掻き立てられた、「エキゾチックな長崎」そのものだった、ということなのですね。

その十字架山へ向かってみます。

今回は、長崎市辻町側から登ります。こちら側は長崎ならではの、車もバイクも入れない坂段の続く道となっています。従って、普段の日中は観光客はおろか、通る人も滅多にいないという状況になっています。
しかし、十字架山は昭和25年にローマ教皇ピオ12世により指定を受けたれっきとした「ローマ教皇庁指定巡礼地」です。
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辻町の「辻」という漢字そのものが、十字架が道を登っていくように見えます。
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ご覧のように十字架山頂上へは、きびしい上り坂が続きます。
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途中にある「十字架道」の碑。

この丘がキリストが処刑された「ゴルゴタの丘」ににていたことから、浦上のカトリック信徒たちがこの地に十字架を立てたのは明治14年のことです。その歴史背景には壮絶とも言えるものがあり、とてもここでは詳細を語りつくせないのですが、非常に大まかにだけ記したいと思います。
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1614年(慶長19年)にはじまったキリシタン禁制は、その後近代国家としてスタートしたはずの明治政府によっても引き継がれましたが、1873年(明治6年)2月、太政官布告第68号をもって、キリシタン禁制の高札の撤去、3月太政官達をもって、「長崎県下異宗徒帰籍」が命令され、実に262年という長い年月を経てようやく終焉を迎えました。

その間のキリシタンに対する弾圧の激しさ、むごたらしさたるや、寒気がするものばかりなのですが、その詳細については他の機会に譲るとして、ここでは明治政府によりなされた最後の大弾圧である、「浦上四番崩れ(くずれ)」について触れたいと思います。

浦上四番崩れは、一村総流罪という歴史的にも類を見ない、むごたらしい蛮行なのですが、事の起こりは明治元年(慶応4年)、九州鎮撫総督兼外国事務総督、長崎裁判所総督として長崎に着任した澤 宣嘉が下した、「キリシタンの中心人物は斬罪(打ち首)、その他は流罪」と下した判断を、政府に送り処分を仰いだことでした。
澤 宣嘉は着任後、わずか一週間でキリシタンの中心人物を役所に呼び出し、尋問しています。そこまでに及んだ沢の胸中は、一体いかなるものだったのでしょうか。
キリシタンについて殆ど知らない政府は沢の処分案を持って上奏することになり、沢の案がほぼそのまま決定となりますが、長崎にもゆかりのある小松 帯刀の「死罪は不当である」という申し入れにより斬罪は無くなり、全員流罪となっています。もしこの小松の申し入れが無く、長崎で大量の虐殺(殉教)事件が起きていたならば、諸外国との関係は違ったものになっていたかもしれません。

かくして浦上・山里村のカトリック信者たちは、「監禁の上、生殺与奪の権を藩主に与え、教諭を加える。やむなき時は中心人物を処分する」という何とも恐ろしい条件を付けられて、名古屋以西の各藩に流されていきました。
各藩の扱いは様々でしたが、残酷な扱いをした藩では、食事や水も殆ど与えず、冬もむしろ一枚もない吹きさらしの家畜小屋のように場所に信者を押し込みました。また真冬の池に投げ込んだり、裸で何日も寒ざらしにしたり、算木責めにしたりなど、考え付く限りの拷問・残虐行為を加え、多くの信者が亡くなりました。(表中の括弧数は流刑中の死者数)もはや、改宗を迫るという本来の目的はどこかへいって、ただ残忍な振る舞いを楽しんでいたと言っても言い過ぎではないかもしれません。
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流刑を宣告されても、信者たち村人は「何も罪を犯しているわけではない」として、この流刑のことを「旅」と呼び、逃げ出すこともなく堂々と応じています。
船に乗せられる大波止や時津港までは、長い列が続き、その中には幼い子どもの手を引いたり赤ん坊を背負った母親の姿も見られ、見る人の心を痛めたといいます。
そういった思いで流されていくカトリック信者たちを見つめていた一人が、今も信者からド・ロさまと慕われる、マルコ・マリ・ド・ロ神父です。長崎に着いたばかりのド・ロ神父はなす術も無くこの流刑を見送らねばなりませんでしたが、医学・建築などに長け、すらりとした体格でウィットもあるこのフランス人の青年は、後にまさに超人的な活躍をします。
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アメリカやヨーロッパ諸国の猛抗議に遭い、ようやく明治6年に禁教令が解かれると、信者たちはやっと故郷浦上に帰ってくることが出来ました。

ここが十字架山の頂上です。すぐ背後に住宅が迫り、なぜ山の頂に住宅が?と思われるかもしれませんが、そこは「山の斜面にはり付くように建ち並ぶ町並み」ならでは、ということなのです。山の反対側斜面は宅地として開発され、自動車の通れる道も整備されています。
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明治元年から6年まで、合計3394人が流され、613人が殉教し、1011人は苦難に耐えきれず、或いは子どもを不憫に思ってなど諸事情から棄教するという選択をしました。
帰って来た浦上の村はすっかり荒れ果て、火事で焼けたりして家屋が無くなっていたり、無事だった家も家財道具が持ち去られたりなど、苦難続きであったといいます。
畑を耕そうにも鍬もなく、欠けた陶器の欠片などで土を掘りかえすという中でしたが、それでも旅の最中に比べたら、信仰の自由のある毎日は、希望に満ち溢れたものであったようです。

信徒たちは262年に渡った迫害が終わったことへの喜びと感謝、そして何より信仰の証しを表したいという気持ちがありました。
また弾圧の中でなされた「絵踏み(踏み絵)」を行ってしまったことへの罪の意識とそれを課した為政者の罪への償いをという思いも根深く、そういった信者達の心の表れを知っていた浦上小教区の第2代主任司祭プトー神父は、ゴルゴタの丘によく似たこの丘に「十字架を建て、償いと感謝の聖地にしよう」と提案し、十字架山がつくられることになりました。
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案内板にあるように、十字架の下の礎石は四尺角(約120cm)もあり、屈強の若者60人が7日間をかけて運び上げています。「その時代は重機も無く大変だったろう」というよりも、それだけの若者が集って事を成し遂げたというそのモチベーションの高さを羨ましくさえ思います。
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石神町にある谷あいです。その名の由来になったかどうかはわかりませんが、大きな岩肌が見えています。
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岩の表面には、くさびで石を割った跡がくっきりと残っています。生活用の通路を通すために削ったのでしょう。先人たちの労苦がしのばれます。
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そこから少し進んで十字架山をみたアングルです。60人の若者たちは、ここを運んでいったのでしょうか。
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今の石神町は、静かな集落となっています。
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ここ十字架山も住宅地の波に呑まれそうになっていますが、旅から帰った信徒たちの十字架に込めた思いを想像するならば、この十字架の周りに立つ歓喜に溢れた姿が浮かび上がってきます。
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付近に咲く1輪の花にも、何らかの意味があるように思えてきます。
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十字架山より、かつての浦上 山里村を見渡します。
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下り道の途中には、「250年ぶりの信徒発見」後、神父を迎え、教えを守るためにつくられた4つの秘密教会のうちのひとつ、「サンタ・マリア堂」跡があります。
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ご覧のように、個人様のお宅の前に小さな碑が立つだけとなっていますが、この場所もまた信者にとっては、神聖かつ重要な教会であったわけですね。
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いったん十字架山を下り、信徒達にとって重要な場所のひとつであったマリアの山(一本木山)とカトリック本原教会を目指します。「平の下」バス停から「登山口」バス停付近まで登ると、小高い丘にある墓地の十字架群が見えました。あたかも信者たちが並んで立って、街を見おろしているようにも見えます。
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現在のカトリック本原教会は、昭和37年に落成したもので、円形をしています。PICT0035

教会入口に立つ像は、26聖人の一人であった、聖ペドロ・バプチスタです。
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聖ペドロ・バプチスタは、かつて村人すべてがキリシタンであったという浦上の街を静かに見守っています。
カトリック本原教会は世界遺産の構成リストに挙げられるような教会ではないのかもしれませんが、ある意味この教会は浦上の信徒にとって特別な意味があると言えます。

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それは教会に隣接するマリアの山(一本木山)の存在です。
禁教下において250年もの間、潜伏しながら信仰を守り通してきた信徒たちが集っては祈りを捧げてきた場所であり、また信徒発見後、プチジャン神父が水方であるドミンゴ又市や数人の信徒から洗礼方式がほぼ正確であることを確認した場所でもありました。
また、「浦上四番崩れ」が始まった頃、ロカイン神父はこの山に潜伏し、信徒たちに秘跡(キリストによって定められた恩恵を受ける手段)を授け、「旅」への出発前には殉教に耐えるように精神的準備をさせた場所でもあります。
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毎年、聖体の祝日の頃(5~6月)、本原教会から画像にある丘の頂上まで聖体行列が行われ、山頂で野外ミサが行われます。
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教会から頂上までは、「十字架の道行(みちゆき)」のレリーフがあります。十字架の道行とは、イエスの不正な裁判から十字架の死に至る歩みを14場面に描いたもので、十字架の道行の祈りは、このひとつひとつの場面を順次たどって、イエスの受難の各場面を黙想し、回心しキリストの愛にならうためのものです。
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6番(第6留)は「イエス、ベロニカより布を受け取る」で、聖ベロニカが差し出した布でイエスが顔をぬぐうと、布に写しだされたという場面です。この場面を見ると、やはり心に浮かぶのは、26聖人像をつくった故 舟越 保武さんの彫刻「聖ベロニカ」です。この場面をより鮮明に浮かび上がらせてくれるのが、舟越さんがベロニカ像について書かれたことばです。
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「聖ベロニカ」
『ゴルゴダの丘で処刑されるキリストが、重い木の十字架を背負って苦痛に耐え、よろめきながら、石畳の道を辿る。群衆は刑吏を怖れて遠まきに見ているだけであった。十字架は肩に食い込み、キリストは苦痛と苦悩に、その顔はいたましく血と汗によごれた。怖ろしいこの道行きの、沿道の群衆の中から、少女が一人とび出して、キリストの顔に跪き、白い布で、その御顔の血と汗をぬぐうた。この少女がベロニカであった。刑吏達の威嚇の中で、少女には、ただいたわりのこころだけがあった。キリストの生涯の記録の中に、ベロニカはここだけに登場する。刑場に進むキリストに捧げるベロニカの心は、道行きの暗さの中の、一つの光となって、後の世まで消えることがない。ベロニカの、この小さな行為には、いたましいほどの美しさがある。ささやかな、とも言えるベロニカのその姿が、なぜか鮮明に私の心に映っている。この頭像は、私がベロニカに捧げる共鳴の、ささやかな、しるしにすぎない。』 
 

自分が殺されるかもしれない状況におかれながらも、咄嗟に行動したその慈悲といたわりの心。それは、その後永遠に語り継がれるほど、美しく尊いものなのですね。
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頂上付近のレリーフ「第11留 イエス、十字架につけられる」です。PICT0024

マリアの山の麓あたりにあるルルド(泉)です。かつてはここから湧き出る泉を浦上教会でも聖水として使っていたのですが、裏山の宅地開発によって枯れてしまったそうです。
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ベロニカが持っていた慈悲の心。それは「旅」から帰った浦上の信徒達の中にも引き継がれていました。
下の画像は「女部屋」と呼ばれた慈善活動の会に属した信徒の女性です。
信徒たちが帰った翌明治7年に巨大台風が長崎を襲い、多くの被害を出しました。特にバラック住まいであった浦上では住居を壊され、ようやく実り始めた作物も失うこととなりました。また台風と前後して赤痢が長崎各地に蔓延し、衛生環境の悪かった浦上でも210人の患者を出しました。
この時、超人的な活躍をして各地の患者を救ったのが前出のド・ロ神父で、ド・ロは医学、薬学に造詣が深く、患者が出るたびに大浦天主堂から薬箱を下げて患者の元に通っています。
その活動の手伝いをかって出たのが、岩永マキを始め、守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサといった旅から帰還した女性達でした。天然痘が蔭の尾島(現在の三菱重工香焼工場の一部)で流行った時にも、ド・ロ神父に同行し、患者の看護から遺体の埋葬まで献身的に活動しています。患者に接触している以上、感染する恐れがある為、家族のもとに帰るわけにもいかず(現在は撲滅)、信徒の中心的な人物であった高木 仙右衛門の小屋を借りて共同作業を始めました。これが「女部屋」です。女部屋の活動は青年達にも影響を与えるなど拡がっていきました。
ある時、岩永マキは天然痘で両親を失った孤児タケを抱いて女部屋に帰りました。その頃、病死や貧困などで孤児となる子どもが多く、孤児養育を天職と悟ったマキたちは、その後も活動を続け、彼女らの亡き後もその活動は現在に至るまで引き継がれています。現在、石神町にある「浦上養育院」と「お告げのマリア修道会」がその志を継ぐものです。
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浦上養育院と岩永マキの像です。
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帰ろうとした頃、ちょうど向かいのフランシスコ修道院より、数人の女性たちが明るくおしゃべりをしながら出てこられました。
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写真を撮らせてください、と頼むと笑顔で照れながらも応じていただけました。失礼なのは承知だったのですが、あまりに明るくいい笑顔」でしたし、何だかこの笑顔こそが、信徒の「素の姿」を表しているような気がしましたので。
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全ては、人の心が見せてくれるものです。




平成27年に、お便りを頂きましたので、付記しておきます。

『 私は京都出身、イギリスにもう15年以上住んでいますが、京都に帰省してもすぐに長崎に行くくらい、長崎は特別です。特に浦上は受難の地ですね。この地域は殉教者の血で染まっているのでは、という気がします。十字架山に行ったときは胸がいっぱいになったことを覚えています。「旅」から戻って、為政者を憎むのではなくて、為政者の罪を償おうというのですから。本当に敬服します。
プティジャン神父にドロ神父、岩永マキや高木仙右衛門、永井隆博士、と私が尊敬、敬愛する人、が住んだ長崎にまた行きたくなりました。 』

ありがとうございました。