平成24年、夜景観光コンベンション・ビューローにより「世界新三大夜景」のひとつに選ばれた長崎市の夜景。
それはデザインされた高層ビル群の夜景でもなければ、壮麗な宮殿等のイルミネーションの夜景でもありません。
港をぐるっと囲む山裾に這いつくばうようにして建ち並んだ家々のともす灯りがつくり出す、言わば「素朴な生活の灯の夜景」なのです。
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そしてその、ひとつひとつの灯りの元となる家屋の多くは、名もき馬たち、特に対州馬と人によって作り出されたものであることを忘れてはならないと思います。
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長く続いた鎖国の時代にあっても、外国との窓口という役目を担っていた長崎の街は幕府の直轄地であり、人口の入出も厳しく制限されていました。よってその人口も3万を超えることがありませんでした。
しかし明治維新とともに人口は爆発的に増加。平地の殆ど無いこの街に宅地をつくるには、山の斜面を削るしかありませんでした。
もちろんトラックなど無い時代。急坂に建築資材や石材を上げるには、馬の力に頼らざるをえませんでした。しかも長崎・対馬産の対州馬は性格が従順でおとなしく、小柄な割りに足や蹄が強かったので、急坂で狭い小径ばかりのこの街の建設には無くてはならない存在だったというわけです。

下は長崎の古はがきで、「長崎高野平(たかのひら、或いはこうやびら)住宅建物」と題されています。明治期から開拓・造成されていった坂の街で、長崎らしいめずらしい景観ということで絵葉書になったのでしょう。
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高野平は現在の長崎市高平町にあたります。
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そして下の写真は昭和50年に高平町で撮影された、荷運びをする馬と馬方さんの姿です。明治期から最近まで、長崎の街の至るところで、このような光景が見られたはずです。
昭和50年高平町・対州馬330

これが現在の同地です。平成25年の現在、40年近くが経過しています。残念ながら荷運びをしていた馬は2009年を最後に途絶えてしまいました。しかし、ご覧のように今でも坂の街では車の入り込めない暮らしが続いており、ゴミ収集の方は写真のような柵付きのゴミ箱を引いて坂段を上り下りされています。
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この坂を上ってみると、おそらく石段そのものは明治期から変わらぬ姿で奥へ奥へと続いています。
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こういった急坂を最大250kgもの荷物を背負って上ることの出来る対州馬たちが、いかに貴重であったか、察しがつくのではないでしょうか。
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しかし、人はより利便性を求め平地に建つ高層マンションへと移り住むようになったせいか、坂の街に空き地が目立つようになったようです。
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明治期の茂木街道と愛宕山。まだ愛宕山の斜面は開墾された畑ばかりであるのがわかります。
茂木街道愛宕M30821

現在の同地です。畑のあった場所にはびっしりと住宅が建ち並んでいます。移動手段が人力車や徒歩という時代において、牛馬の力がいかに頼られたかがここでもうかがえます。
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ちょうど撮影場所の近くでコンクリートのうち直し工事をやっていましたが、セメント袋の運搬はトラックから人の手となっていました。しかし道路から離れている坂段の場所では今日でも尚、不便きわまりないはずです。
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そもそも長崎市に一度でも来られたことのある方であればわかると思いますが、市内に入るのに平坦な地上のルートというのは、一箇所もありません。
特に江戸時代まで主要なルートであった長崎街道で市内に入るには、「西の箱根」と呼ばれた日見(ひみ)峠を越えなければなりませんでした。つまり街を建設する多くの資材を搬入するにも、この急峻をこえなければならなかったわけで、ここでも多くの馬たちに助けられています。

これは昭和初期に撮影された、「日見七曲り」と呼ばれた峠道の難所です。一人の馬方さんと荷車を曳いた馬の姿が見えます。荷は藁のように見えますが、おそらく中身はそのようなものではなく、米や炭などの重量物であったろうと思います。
日見七曲がり昭和初期

同地は90年近く経った今でも、ほとんど変わっていません。この場所に立ってみてわかることは、すでにここがかなり標高が高い場所である上に、「七曲り」はむしろここから先、延々と続いていくということです。
写真に見える馬の苦労が時を越えて伝わってきます・・・。
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峠の頂上を過ぎた茶屋跡には、馬たちが喉を潤したであろう石の桶も残っていました。
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七曲りを通ることのできないような大木を引く馬は大正15年完成の日見トンネルを通って長崎の街へ資材を運んでいます。
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2009年に引退した最後の馬方さんは、『ここいらの家はほとんど馬で建材ば運んだとばい。馬の建てたようなもんたいね・・・』はつぶやかれていました。
そして別の馬方さんは、「荷運びには、本当に対州馬がよかと。向いとると!」と話されました。他の馬にはない従順さとおとなしさ、忍耐強さがあるのだそうです。
坂ばかりの街の近くに、このような性質を持った馬がいたことは、何とも不思議な縁と言うか、結びつきを感ぜずにいられません。(写真の馬は対州馬ではありませんが)
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街全体がまるで古代ローマの円形劇場のような景観となった、その陰には対州馬をはじめとする馬たちの活躍があったわけで、独特の夜景を創りだしたのも馬たちの存在があったからこそ、と言っても言い過ぎではないと思うのです・・・。
「港と坂の街、そして対州馬」。この一枚の写真こそ長崎らしい長崎の写真かもしれません。
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(上の写真が撮られた場所です。今でもおじいさんと馬がのぼってくるような気がしますね)
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