「親の目・子の目」はテレビ朝日など民間放送32局(当時)加盟の民間放送教育協会が製作するテレビドキュメント番組で、1971年4月9日から2004年3月11日まで約33年間に渡って放送されています。(wikiより)

2013年現在では、このような親子の絆や生活を記録した番組はほぼ皆無と感じますが、その中で長崎・軍艦島を舞台にした非常に秀逸な構成の放送があったことをご紹介したいと思います。

非常に状態の悪い画像を数枚掲載していますが、このトピックの目的は、こういった秀逸な番組があったことを紹介していけば、もしかすると各地方放送局に保管されている多くの優れた番組映像がアーカイブとして世に出て、多くの人に鑑賞される可能性もあるかもしれない、という希望をこめてのことです。目的はそれ以上のものではないことをご理解頂ければ幸いです。

この番組では、軍艦島がめずらしい炭鉱の人工島だから取り上げたわけではなく、あくまで閉山を迎えた親と子の心の動きとその様子に焦点を当てている点が素晴らしいと思います。

『 親の目・子の目 「ともだちのうた~軍艦島閉山~」 』  昭和49年放送

かつての賑わっていた時代の軍艦島の様子。「端島銀座」呼ばれた59~60号棟と57号棟の間辺りかと思います。地下浴場から出てきた子どもたちがよく向かいの商店でアイスキャンデーなどを買うのを楽しみにしていた、といいますのが、この写真もアイス・ボックスの中に頭を突っ込んでいる子どもたちの賑やかな様子が見えます。
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これは父親達の仕事の様子を紹介している場面。鉱員さん達を仕事の現場まで輸送する人車(じんしゃ)が写っています。軍艦島の場合、竪坑(たてこう)と呼ばれた垂直の坑道を600mほどケージで降りた後、水平坑道をこのような人車で最長2kmほども移動しました。
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人車内の様子です。往復4時間近くも人車に乗っていると聞けば、楽かと思われるかもしれませんが、人車にはほとんど照明すらなく、暗く狭い中をただひたすら走ってゆきます。しかも進めば進むほど、坑口から離れる、つまり安全圏から遠ざかるわけです。何か起きても海面下数キロの海底坑道には救助隊などまず来れないと言っても言い過ぎではないでしょう。
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海面上の軍艦島から遠く離れた海面下で作業は始まります。特に切羽(きりは)と呼ばれた採炭の最前線近くでは照明も暗く、鉄柱などの施設も十分ではありません。
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約40℃の気温、95%の湿度の中での作業は過酷を極めます。
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映像の中では絶えず海水が滴り落ちています。塩水が長時間皮膚につくと皮膚がかぶれるだけでなく、地下水層などを破るとたちまち狭い坑道内は水で満たされてしまうという危険極まりない状況下での作業です。そのほかにも落盤や一酸化炭素中毒、メタンガスなどにも注意を払わねばなりません。
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番組の主人公である子どもは端島小学校6年のゆうじ君。ひとりっこでシャイな性格の為、小さい頃は飼っている犬と遊ぶことが多かったのですが、アパートの部屋の近くに活発な年上の友だちができてからは、皆と活発に遊ぶことができるようになってきました。
しかし、三菱高島鉱業所端島鉱が閉山となった為、軍艦島の全住人が離島を余儀なくされてしまいます。
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離島する以上、隣りの島にある高島鉱へ移るか他の業種に転職するかしかないという選択を迫られる中、次の行き先が決まった家族が次々に島を離れていきます。
しかし、ゆうじ君のお父さんは年齢が高かったせいか、なかなか次の就職先が決まりません。
(写真は海面下に坑道の伸びていた三つ瀬付近に沈む夕日)
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毎日のように島から転出してゆき、初めは多かった見送り者も、だんだんと少なくなっていきます。子どもたちは桟橋や島の高台にある端島神社から去っていく友だちを見送りました。
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ドルフィン桟橋で。
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ゆうじ君たちは、もう二度と会えなくなるかもしれない友だちを見送る寂しさと、自分の行き先が決まっていない不安の入り混じった気持ちのまま、毎日ドルフィンに来ました。
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石炭を掘る目的の為だけに作られた人工島である軍艦島。離島期限を過ぎると立ち入り禁止となります。もちろんライフ・ラインは止まり、食料も渡航手段すらもありません。
去っていく家族はもう二度と来ることは無いであろう軍艦島の姿と桟橋で手を振る仲間たちを、どのような思いで眺めたでしょうか。
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最盛期は160m×480mに5,000人もの人が大家族のように住んでいた軍艦島。アパートには無人の部屋が増えていき、小6のゆうじ君にも別れが迫っていることを実感させます。
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次の入居者の無い部屋には昨日までの暮らしに使用していた家具や家財道具の多くがそのままの形で残されました。中には離島の朝、家族で朝ごはんを食べ、その食器を流しに置いたまま出て行った家族もおられました。
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ようやくお父さんの次の就職先が決まりました。お父さんは炭鉱ではなく、京都のクリーニング工場で働くことになりました。実は活発な先輩のお父さんも同じ工場で働くことになっていました。おそらく両親はやや内気なゆうじ君の不安な胸の内を察しての決断でもあったと思います。
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その後、愛犬を長崎市内の親類に預けることになり、ゆうじ君は最後の別れをした後、京都に旅立ちます。
犬に「泣くな、もう会われんとよ!とお~か所に行くとよ!」と声をかけ去っていきます。
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ラストは転校先の京都の学校で、クラスメイトから「○○は知ってる?」などと質問攻めに会う元気なゆうじ君の様子を映し出して終わります。

今、年間何万人もの方が軍艦島に上陸されておられます。
その第一歩はドルフィン桟橋であり、また帰りもそうです。わずかな滞在時間ではありますが、そこから見える感じる軍艦島というものに、このゆうじ君家族の思いを重ねてみるというのもいいかもしれませんね。

そこからはまた違った角度から炭鉱というものが見えてくるのかもしれません。