昨年3月末をもって閉鎖された大黒・恵美須市場。その後長い間立ち入り禁止という状態が続いていましたが、平成25年になってから遂に解体・撤去されました。
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行政に関しては今更このトピックで云々言う気はありません。でも、一年前の同地はこのようになっていたわけで、どちらが「長崎」の街として親しみが持てるかなぁと思ってしまいます。
まぁその論争も他に譲るとしても、下の画像にあるように、ここには長年「ヒトの暮らし」があり、雨が降れば、家族の傘が並ぶ・・という日常の光景が見られました。
確実に言えるのは、「多くの人の長崎の故郷が、またひとつ姿を消した」ということです。
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「無くなった」とは言いません。暗渠が取り払われて、川になったとしても、ここが誰かの故郷であり、ルーツであったことに変わりはありませんから。しかし、その姿は永遠に消えてしまいました。
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消えてしまったのは、ただの建築物・構造物だけではありません。市場に寄りかかるように育った樹木の花も含め、多くのもの。多くの記憶・・・。
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ここで生まれ育ち、青春を過ごし、嫁ぎ、子どもを授かり、働き、生きた全てのこと。
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時代の波に流されながらも、不平のひとつもこぼさず最後の日まで笑顔と感謝で終えた市場の仕事。働くことそのものが、生きることであったと思います。
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大らかな街の風景。
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懐の深く、あたたかだった街。空間。
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先義後利を第一にした商い。
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もうそんなことを想像することさえ無理な状況となってしまいました。
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川面は意外なほどきれいで、何もありません。何も感じさせるものはありません。
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市場を載せていたであろう鉄筋コンクリートの跡。
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意外なほど、しっかりしているように見えます。
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今は稲佐山がよく見えていますが、やがては県庁の新庁舎などがまたこの視界を遮ってしまうことでしょう。
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これは昭和30年初頭の長崎市です。
左手の教会が中町教会。右手の三角屋根が長崎駅舎。まだ街には瓦屋根が多くのびのびと明るい町並みを作っているのが見てとれます。
(ちなみに大黒・恵美須市場は昭和31年に完成しています。)
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その中央に見える細長い建物が「大黒恵美須市場」です。近くに移転前の魚市場があり、まさに「市民の台所」であったことがうかがえます。
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少しアングルが違いますが、この写真でも同市場が、長崎の街にあって、どういう場所であったかが、よくわかりますね。
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昭和30年。原爆禍から10年。街はようやく立ち直り、人々が助け合いながら街づくりが行われていたことが、写真からも伝わってきます。
原爆により壊滅した浦上はこういった感じです。原爆資料館のあった長崎文化会館をひとつのモニュメントとして、街がゆるやかに蘇りつつあるのがわかります。
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そういった意味では、大黒恵美須市場は原爆により壊滅した長崎の復興のシンボルのひとつと言っていいだろうと思います。
原爆投下後の市場のあった辺りは、このようなものでした。黄色い矢印の場所に見える石垣が、後に市場のできる川の護岸です。
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これも同地の写真です。
未来に向けて街が一歩一歩発展していくこと、前に進むことは絶対的に必要なことです。
しかし、一方で、この場所がここから立ち上がっていったという記憶を残すこと、失わないこともまた必要なことだと考えます。
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人は、残りの人生がそう長く残されていないと悟った時に、幼い頃に見た風景、その場所、つまり故郷に帰りたいという思いが湧き上がってくるのではないでしょうか。それは未来の人間にとってもおそらくずっと変わらないでしょう。
私のとってのその場所も、もう20年ほど前に姿を消してしまいました。今、同地に立つ巨大な商業施設に立ってみても、「故郷」を感じることはできません。

ですから、街はいつまでも「心が帰れる」場所であって欲しいと思うのです。
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