私がまだ幼い時に、この写真を見た印象は、「防空壕に入っていて、よかったぁ!・・と嬉しいんだね」というものでした。でも、やっぱりこの写真は数ある被爆写真の中では、それ以上の印象の無い写真でしかありませんでした。
この写真は、当時西部軍報道部カメラマンであった山端 庸介氏によって、原爆被爆の翌日1945年8月10日朝に撮られたもので、アメリカの雑誌「ライフ」にて、「ラッキー・ガール」というキャプション付きで掲載されたものです。

山端氏もこの写真について、
『中町天主堂付近の、自宅前道路に作った防空壕に避難して助かった少女。原爆の印象は強烈な閃光と凄まじい爆風の音であった。それよりも助かったよろこびの方が強く、撮影する私に元気に話しかけてきた。』と説明を加えていました。
しかし、この写真も、この女性の微笑みも実はまったくの演出でした。
しかも多くの人に印象を与えた「ラッキーガール」というイメージとは、まったく異なる人生を、この女性はこの時背負わされていたことを、おそらく殆どの人が知りません・・・。
まず。この防空壕があった場所はどの辺りだったのでしょうか?もちろん今もなっては何の手がかりもないのですが、写真に写っている中町天主堂の塔との距離感を考えると、現在のNBC長崎放送の裏手辺りかなという見当は付きます。
長崎放送は戦後に開局したので、もちろん同局とはまったく関係はありません。この防空壕がどこのもので、どういう状態であったかわかりませんが、被爆の翌日であるわけですから、中が無事であるというのも想像しにくいような気がします。

実はこの防空壕の少女は、その後の消息がわかり、昭和53年の8月9日、つまり被爆から33年後の熊本日日新聞に記事として紹介されています。もちろん氏名もわかっているのですが、この記事では必要ないと思いますので、仮にSさんとしておきます。
記事の見出しのように、Sさんは熊本県人吉市で、ひっそりとひとり暮らしをしていました。
「35年に白血病発症 そして離婚」の文字があるように、その後の人生は「ラッキー・ガール」とはまったく異なるものであったことを示しています。
そして、Sさんは、写真を撮られた時のインタビューにこう答えています。
『写真撮影のことはよく覚えています。写真を取らせてくれと言われて、防空壕に入りましたが、あの時は怖くて、逃げることばかり考えていました。笑ってくれと言われ、無理に笑顔を作りました。』
また
『(被爆後)翌朝カメラマンに会うまで何をしたのか、全く記憶にない。』とも。
当然のことですが、写真を撮られた時、18歳のSさんは「茫然自失」の状態だったわけですね。

Sさんは熊本県球磨郡の農家に6人きょうだいの四女として生まれました。地元の学校を卒業後、熊本市の日赤病院で見習い看護士として働き、長崎にいた長姉夫婦を頼って長崎に移ってからは国鉄の女性車掌として長崎市で働いていました。
そして運命の日、1945年8月9日を迎えたのですが、実はSさんはこの日に佐賀県で同じ国鉄勤務の男性と佐賀県で結婚式を挙げる予定でした。しかし親戚の都合で式が延期となったため、長崎市大黒町の下宿で被爆してしまうのです。
それでも被爆一週間後に男性と結婚し、大村の国鉄官舎で暮らし、昭和24年からは夫の故郷である佐賀県東松浦郡厳木(きゅうらぎ)町に落ち着きました。
4人の子どもに恵まれ、この頃が一番幸せな時期であったようです。
しかし、昭和35年頃より白血病の症状が現れ、苦しむ状態が続きます。そして体を少しでも楽にするために医者から勧められた飲酒の習慣から抜け出せなくなってしまいます。
やがては家庭不和が生じ、昭和48年に離婚、既に独立していた4人の子どもとも離れ、ひとり郷里に近い人吉市に帰りました。
51歳という若さで亡くなるまでの6年間は、子どもや親戚ともほとんど会うこともなく、見出しの通り「ひっそり」とこの世を去りました。
晩年には、離婚以来一度も会うことがなかった子どもや孫の写真を大切に持ち歩き、いつもながめていたということです。
これが「ラッキー・ガール」の真相と、その後の生涯なのでした。
「防空壕に入っていて、よかったぁ・・と嬉しい」どころか、運命のいたずらがなければ、原爆にも逢わず、幸せな家庭生活を送れたかもしれないのに、結局はそれも叶わず、寂しい一生を終えられていました。
NBC裏から教会方面に向かって少し歩きます。
そこは市民の憩う緑地となっています。防空壕はこの辺だったかもしれませんね。

緑地の一角には、長崎復興工事事務所跡を記念する碑が立っていました。戦後半世紀、「街は、人は一歩一歩でも復興の道を歩んでいるのだろうか?」という思いが、ふとよぎりました。

最後になぜ、山端カメラマンはこのような「創作」写真を撮ったのか?
軍所属のカメラマンであった山端氏が被爆直後の長崎を撮影した目的は、次の2つです。
「対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を撮影すること」そして、「今後、新型爆弾から身を守るためにどういう手段を取るべきかを探る」というもの。
おそらく山端氏は長崎を歩いてすぐに、安全に身を守る術を示す写真など撮れっこないことを直感していたでしょう。
だからこそ、このような「創作」写真を撮るよりほかに命令に応える道がなかったのだと考えます。
そうでなければ、どうにもやりきれません。
*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝える事です。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
それはそれでいいのでしょうが、いつのまにか流れが都合のいいように流れ、同じあやまちを犯してしまうのがまた人。
これでいいのか?と時々は問うことも大事ですね。ありがとうございます。