原爆・爆心地より700mの場所にあった山里国民学校は同じく500mにあった城山国民学校とともに、爆心地に近い国民学校として壊滅的な被害を受けましたが、鉄筋コンクリート造であったため、かろうじて外形を保ち、その後修復などされ、再び校舎として使用されました。(画像右上が山里校。周りのものが全てなくなっています)
山里と盲学校478


ひと口にそうは言っても授業を再開するまでには困難な道のりがあり、再開してからも、その有様というものは大変なものでした。特に冬の厳寒期に、ガラスさえもはまっていない被災校舎で授業を行ったことについては想像できないような苦難もあったようです。
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当時山里校にいて生き延びた教員林 英之さんと六年生であった生徒達によって平成2年に発刊された被爆体験記「思い出新たに」の中には、林さんが記録していた当時の授業の様子が記載されています・・・


(被災後、山里校・校舎や校地は負傷者や避難者たちで溢れ、海軍医療隊が治療を行いましたが、日に日に亡くなる方は増え、その屍は校地に累々とし、たくさんの遺骨や汚物が残されたため、秋になってもとても授業を行える状態ではありませんでした。その為、生き残った林さんら3人の教員はやむなく1kmほど離れた師範学校(現・長崎大学付属小学校の場所)の教室を借りて授業を再開しています。師範学校は全壊した西浦上国民学校に隣接しており、既に移転・入居していた西浦上校から3教室だけを分けてもらってのスタートでした。教室内部の魚雷製造の機械や道具の撤去から始め、焼け跡の山里校から机や椅子を子どもたちが何日もかかって担いで運んでいます。山里小に帰ることができたのは、翌21年6月からのことですが、以下の手記はその冬の教室の様子を綴っています。)


11月27日(水)
朝は晴れかかっていたのに、急に暗くなり、雨が物凄く窓から降り込むし天井からは漏って授業ができない。午前で授業を打ち切る。

11月28日(木)
今日あたりから寒くなりだした。

11月29日(金)
今日はいっそう寒い。吹きさらしの教室では寒くて授業ができない。二校時で止めて、運動場で火を焚いて暖をとる。

12月2日(月)
小雨、めっきり寒くなってしまった。吹きさらしの教室での授業は児童教師ともに辛い。だまって座っていてはとても授業ができないので午後は帰す。これでよいものか、と良心がうずく。早く何とかしてくれぬと子どもがかわいそうである。

12月3日(火)
曇、一校時までは何ともなかったが、二校時から北風が吹き始め、授業なんかできはしない。三校時松山町まで駈足をする。

12月4日(水)
晴、今日は天気はよいが風が吹いて寒い。教室ではとても授業できないので屋上に出てコンクリート壁を背にし、風を防いで国語の朗読をする。

12月5日(木)
曇後小雨、冬の天気というものはおかしい。昨日あれほど天気がよかったのに今日の寒さ、とても授業ができない。二時間ほどして後は自由時間にする。これでよいものか、気がかりである。帰る時になってみぞれが降り出す。

12月6日(金)
今日の寒さはとても話にならないので、午前で切り上げて帰すことにする。

12月9日(月)
この冬になって今日ぐらい寒いことはない。あられも混じえての強い風、昨日からの頭痛なおらず欠勤する。この寒さではきっと授業はできなかっただろう。

12月10日(火)
曇、少し頭が痛いが無理して出勤する。少し遅刻したが、南側校舎の焼けた教室の土間で焚き火しながら、長岡先生から授業を受けていたが、これはよい方法だ。寒いので午前中で帰す。

(年が変わっても厳冬が続きます。)

2月17日(月)
曇、寒く冷たい、ガラスが盗まれたのがうらめしい。子どもたちはさぞ冷たかろう。授業に身が入らぬ。
(この5日程前、入れたばかりの窓ガラス137枚を夜のうちに盗まれるということが起きています)

2月18日(火)
曇、今日は滅法冷たい。一時間も教壇に立っていると足先がじんじん冷えてくる。子どもたちも同じだろう。

2月19日(水)
曇、今日も冷える。二月中旬だというのにこの寒さは何時まで続くものやら、授業に身が入らぬ。

3月10日
三月というのに昨日は粉雪がちらつき寒さがぶり返した。今日も寒いが予定どおり送別遠足を決行、目的地の金比羅山への道をまちがえとんでもない方向へ行ってしまった。けれどさすがに子どもたちは嬉しそう、今年度僅かに二回の遠足だもの、天気は悪かったけどのんびりした気持ちになった。


・・・・このような状況の中、教員3名と生徒達は冬を乗り切り、3月20日の卒業式で62人の卒業生を送り出しています。
古巣である被災校舎への引越し、風雪の吹き込む教室での授業、下級生達を引っ張り頑張った6年生たちと3人の教師たちはどのような思いで、その日を迎えられたでしょうか。

城山小学校などでも同じような状況で授業を行わざるをえない状況だったそうで、体調悪化を心配した教師達はあまりに寒さが厳しい日は自宅学習とし、「学校には来ないように」と伝えていたそうですが、どんなに雪が降っても風が吹いても子どもたちは学校へやってきたと言います。
物に溢れ、立派な施設はあっても学校へ行きたくない、という子どもが増える現代。そして伝統があり文化の拠点でもあるのに、生徒数の減少のために毎年何校も潰されていく現代。ただの「時代のせい」だけとは言いたくないですね。
たとえ困難が多くとも「自分が必要とされている」「役に立っている」「仲間と生きている」というモチベーションの大切さを今に教えているような気がします。
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その多くの生徒達にとって、忘れたくとも忘れられない学び舎。また多くの方が亡くなった祈りのシンボルでもあり、浦上の復興のシンボルでもあった山里小学校でしたが、残念ながら昭和63年に解体されてしまいました。
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現在の長崎市立山里小学校。浦上天主堂を思わせるような美しいデザインとなっていますが、未来に残すべき建築物とは言えなくなっているような気がします。
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「長崎っ子の心を見つめる教育週間」中は学校公開をしているので、出向いてみました。
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敷地には平和資料館も併設されていますが、校舎などの遺構はほとんど残ってはいません。あるものは、裏門の1柱。
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そして資料館の中にある階段の手摺り。構造物は防空壕をのぞいてはこの2点だけです。
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玄関から廊下を体育館の方へ進むと正面に防空壕が見えてきます。
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空襲警報が解除されていた為に、防空壕にいて助かったのは林先生など数人にすぎませんでした。
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体育館では全校集会の途中でした。校長先生が「命」について、お話をされていました。
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校章です。平和のシンボルでもある鳩が「山」の字になっています。
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資料館の中にはパネルや模型なども展示されています。この写真では旧校舎と復興をとげた街の様子がよくわかります。
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旧校舎の模型です。被爆前の昭和20年6月には生徒数1,581人が在籍する大きな学校でした。しかし原爆により約1,300名もの生徒が亡くなっています。
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永井 隆博士の娘、茅乃さんの写真もありました。すぐ後に移っている山口 幸子さんの書いた被爆体験作文の中の「のどが乾いてたまりませんでした・・・」という一文は、平和公園内の泉の前の碑に刻まれています。
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幼い頃から目にしているこの一文は、強烈に頭の中に焼きついています。
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作文の全文です。
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資料館の横、校門付近には「あの子らの碑」があります。全国から送られた折鶴の絶えないこの碑は山里国民学校の近くに住んでいた永井 隆博士と児童たちが平和の祈りを込めて建てたものです。
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碑についての説明板です。
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碑の近くの壁には永井博士が作詞した「あの子」のプレートが掛けてあります。この歌は毎年、8月9日に平和公園で行われる平和祈念式典の中で、山里小児童によって歌われています。
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寒さに打ち震えるようなこんな日には、ガラスも床板もない被爆校舎の中で学習をがんばっていた教師と子どもたちの姿を思い出してみるのもいいかもしれませんね。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月