被爆した建物として人々に最もよく知られているのは、平成12年の夏に文化財登録の話が持ち上がった「城山小学校(旧城山国民学校)の被爆校舎だと思いますが、外側はご覧のようにかなり補強・補修され、当時の質感は想像しにくいものとなっています。多くの生徒が通う敷地にあり、資料館となっている内部には多くの見学者が訪れる場所ですので、いたしかたないとは思いますが。
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被爆後、昭和33年まで残されていた浦上天主堂の被爆遺構も解体・撤去され、一部が原爆資料館の中へと移されましたが、薄暗い屋内に展示されていることもあり、原爆の実相をうかがわせる遺構という感じでもないような気がします。
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そんな中にあって、長崎医科大学(現長崎大学医学部)キャンパスに残されているゲストハウス(戦時中は配電室として使用)は、崩落の危険も少ないためか、被爆時の壁や柱が大きな補修もされずに残っています。つまりその部分は、現在も私たちが見ることのできる、放射能・爆風・熱線という強烈なダメージを受けた建物の色と質感そのもの(コンクリート)と言えるのではないでしょうか。
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爆心地から約600mという至近距離にありながら、これだけの形を平成24年の取材時にも保っており、かなり堅牢な造りであったことがわかります。しかし、下の写真で周りに何も残っていないのを見てもわかるように、医科大学の建物群は強烈な爆風によって叩き潰され、続いて熱線により発生した火災により焼き尽くされました。特に主要建築物76棟のうち65棟が木造であり、中で講義を受けていた学生達は逃げるいとまも無く、この地で無念の死を遂げています。
焼け跡からは教官は教壇上で、学生たちは座ったままの姿勢という姿の遺骨が発見されたといいます。
医科大学に併設されていた病院が鉄筋コンクリート造でなかったならば、その中にいた永井 隆博士も角尾学長も即死していたことは、まちがいありません。
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これだけ当時のままを保っているにも関わらず大学のキャンパス内にあるせいか、訪れる人もあまりなく、寂しさが漂います。それがかえって被爆の実相を語っているような気もします。
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もしかするとこの石段に腰掛け、未来を語り合ったり、議論をしていた若者たちもいたかもしれないと考えると、胸の奥に切ないものが込み上げてきます。
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フィールド・ワークや修学旅行生も多く訪れる、医科大学の正門・門柱です。強烈な爆風により約7tの門柱は約9cmずれ、前のめりに傾いたままとなっています。
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現在のポンペ会館の裏手にあり、グビロが丘と呼ばれる小高い丘には慰霊碑が立っています。ここは被爆直後、重傷者たちの避難場所となった場所でした。
訪れる人もまばらなのか、取材時のこの時には夏草が生い茂っていました。
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付属薬学専門部の射的場と防空壕跡地にも慰霊碑があります。この辺りは、より鬱蒼と草木が生い茂っています。
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寂寞とした思いでこの地を去ろうとしていた時、藪の中に数本の紫陽花の花が見え、少しほっとした気持ちになりました。
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長崎大学医学部は、もちろん誰でも見学することができます。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月