「世界三大夜景」に選ばれた長崎の夜景。それは大変にうれしいことです。
しかし子どもの頃、目にしていた夜景は下の画像のようなもので、今とは随分違っていたように思います。(画像は昭和30年前後頃の絵葉書より)
まだ高いビルやマンションなどがなく、灯りのひとつひとつは家々のもの。それも青白い灯よりほのかなオレンジの灯が多かったように思います。
それがすり鉢状に港を囲み、山々の上の方まで続くというものでした。たとえ世界三大夜景であってもなくても、夜景はこの街の大好きなものであり、他県の方に見て欲しいという思いがありました。
それは子どもながらにも、「あの灯のひとつひとつが人が生活をしている灯なのだ」という、温かみに似た感情を抱いていたからだと思います。
(以下は2015年3月頃撮影)
山田 洋次監督の名作シリーズ「男はつらいよ」の中で昭和48年に公開された「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」の中の1シーンに、次のようなやりとりがあります。
場末の歌手・リリーと寅次郎が網走で出会った時の会話です。
網走に向かう夜汽車の中で、涙を拭くリリーのことを寅次郎が見かけ、商売の途中で二人は偶然出会います。
寅 「どうしたい、昨夜は泣いてたじゃないか。」
リリー 「(笑って)あら、見てたの、嫌だ」
寅 「何か辛いことでもあるのか」
リリー 「別に・・・ただなんとなく泣いちゃったのさ」
寅 「なんとなく?」
リリー 「うん、兄さんなんかそんなことないかな・・・・夜汽車に乗ってさ、外見てるだろう、そうすると何もない真っ暗な畑の中なんかにひとつポツンと灯りがついていて、ああこんなところにも人が住んでるんだなァって、そう思うとなんとなくもの悲しくなって涙が出ちゃいそうになる時って、ないかい」
寅 「うん、こんなちっちゃな灯りがスーッと遠ざかっていってな・・・・・ああ、あの灯りの下は茶の間かな、もう遅いから子供たちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが二人でしけたセンベイでも食いながら紡績工場へ働きに行った娘のことを話しているんだ、心配して・・・・・暗い外を見てそんなことを考えていると汽笛がポーッと聞こえてきてよ。なんだかふーっと涙が出ちまうなんて・・・・分かるよ」
「灯り」には、そんな想像をかき立てるものがありますね。
山の斜面にはり付くように建った家々の灯りこそが、「長崎の夜景」というイメージが今でも私の心の中に焼きついています。
ところが、今の夜景は巨大な橋のライトアップやイルミネーションはあっても、小さな家々の灯は随分と減ってしまいました。
高層ビルやマンションの規則的に並ぶ青白い光だけがやけに目につきます。
「懐かしい長崎の灯」がずっとこの街にともり続けることを願ってやみません。
しかし子どもの頃、目にしていた夜景は下の画像のようなもので、今とは随分違っていたように思います。(画像は昭和30年前後頃の絵葉書より)
まだ高いビルやマンションなどがなく、灯りのひとつひとつは家々のもの。それも青白い灯よりほのかなオレンジの灯が多かったように思います。
それがすり鉢状に港を囲み、山々の上の方まで続くというものでした。たとえ世界三大夜景であってもなくても、夜景はこの街の大好きなものであり、他県の方に見て欲しいという思いがありました。
それは子どもながらにも、「あの灯のひとつひとつが人が生活をしている灯なのだ」という、温かみに似た感情を抱いていたからだと思います。
(以下は2015年3月頃撮影)
山田 洋次監督の名作シリーズ「男はつらいよ」の中で昭和48年に公開された「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」の中の1シーンに、次のようなやりとりがあります。
場末の歌手・リリーと寅次郎が網走で出会った時の会話です。
網走に向かう夜汽車の中で、涙を拭くリリーのことを寅次郎が見かけ、商売の途中で二人は偶然出会います。
寅 「どうしたい、昨夜は泣いてたじゃないか。」
リリー 「(笑って)あら、見てたの、嫌だ」
寅 「何か辛いことでもあるのか」
リリー 「別に・・・ただなんとなく泣いちゃったのさ」
寅 「なんとなく?」
リリー 「うん、兄さんなんかそんなことないかな・・・・夜汽車に乗ってさ、外見てるだろう、そうすると何もない真っ暗な畑の中なんかにひとつポツンと灯りがついていて、ああこんなところにも人が住んでるんだなァって、そう思うとなんとなくもの悲しくなって涙が出ちゃいそうになる時って、ないかい」
寅 「うん、こんなちっちゃな灯りがスーッと遠ざかっていってな・・・・・ああ、あの灯りの下は茶の間かな、もう遅いから子供たちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが二人でしけたセンベイでも食いながら紡績工場へ働きに行った娘のことを話しているんだ、心配して・・・・・暗い外を見てそんなことを考えていると汽笛がポーッと聞こえてきてよ。なんだかふーっと涙が出ちまうなんて・・・・分かるよ」
「灯り」には、そんな想像をかき立てるものがありますね。
山の斜面にはり付くように建った家々の灯りこそが、「長崎の夜景」というイメージが今でも私の心の中に焼きついています。
ところが、今の夜景は巨大な橋のライトアップやイルミネーションはあっても、小さな家々の灯は随分と減ってしまいました。
高層ビルやマンションの規則的に並ぶ青白い光だけがやけに目につきます。
「懐かしい長崎の灯」がずっとこの街にともり続けることを願ってやみません。
人の温かさが無いからなんだ、という事。
あの無作法な光の押し売りはなんとかできないものでしょうかね。