1945年8月9日の原爆投下により校舎が全壊した主な学校は、私の母校である西浦上小学校、西坂小学校、そして瓊浦中学校などですが、瓊浦中学はともかく、西浦上小や西坂小が「被爆・被災校」として紹介されることはまずありません。
私などは、低学年のうちに転校したとはいえ、西浦上小に在籍していたにも関わらず、同校が全壊した被爆校であることも、慰霊碑が建っていることも耳にすることはありませんでした。不思議なことです。
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何度もこの前を通りながら、一度もこの碑に手を合わせることをしなかったばかりか、この碑が何であるかさえ、しりませんでした。終戦から、たった25年ほどのことです・・・。(今は、まったくそんなことはないことは、供えてある千羽鶴からもわかります。また後の卒業生の方からは、『毎年慰霊祭を行っていた』という証言を寄せて頂きました。私の在学していた時代は、一学年が7~8クラスもあったので、もちろん全校児童での慰霊祭は不可能だったでしょうから、おそらく高学年の代表児童と先生方で行っておられたことと思います)
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当時、家野郷にあった(現・長崎大学教育学部付属中学校)西浦上小学校は、爆心地から約1.8km。しかし間にさえぎる山がない為、想像を絶する爆風が襲っています。ちなみに、隣りには現在も残る被爆遺構、三菱造船船型試験があります。
被爆時、同小では激しくなる空襲の為、発祥の地である滑石・大神宮や川平分教場(現・川平小学校)、滑石分教場(現・滑石小学校)に分かれての分散授業体制をとっていました。
8月9日は、授業日になっていましたが、7:50に空襲警報が発令されたため、登校中であった児童たちは、引き返すこととなりました。同警報は8:30に解除となりましたが、授業が再開されることなく、職員だけが勤務を行っていました。
強烈な爆風は、木造二階建ての校舎を一度上方に持ち上げてから地面に叩きつけ、校舎は踏みつけられた餅のような格好でぺしゃんこになりました。
その後、隣りにあって、やはり全壊した長崎師範学校や近隣民家から発生した火災により延焼の危機に見舞われましたが、校舎から這い出した職員や師範学校の生徒、そして川平分教場から駆けつけた職員らの死に物狂いの消火活動によって鎮火に至らしめています。かくして今も残る重要書類の数々は原爆による消失を逃れています。
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当時、校内にいた職員は13名で、犠牲となった職員は4名でしたが、これだけの被災にも関わらず比較的犠牲者が少なかったのは、近隣に三菱兵器大橋工場があり、空襲に晒されやすい立地であったために、普段から防火用水槽2ヶ所、大型貯水池、手押しポンプ1台、二輪付き小型ガソリンポンプ1台、横穴防空壕及び退避壕各1ヶ所、看視哨用のたこつぼ2~3ヶ所、家庭科教室の床面にコンクリート製の塩の保管庫と、備えがあったことが大きかったようです。
当時在籍した児童生徒は1,078人で、自宅や屋外で被爆し亡くなったのは、約170人と推定されています。

その後、浦上川沿いの昭和町に移転した西浦上小学校・正門前の「まなびや橋」と浦上川の流れです。被爆直後、火災と瓦礫によりまともに歩けなっかた多くの被災者たちが、この流れに沿って避難していきました。
この川に沿って上流に向かえば、永井隆博士らの第11医療隊の臨時救護所があり、水源地方面へ向かえば国鉄の最前線乗車地であった道ノ尾駅に続いています。言わば、「命の流れ」なんですね。
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移転後の昭和37年に作られた新校歌です。入学したばかりの私は「西浦上の聖なる地」と「白亜の校舎」という言葉がやけに印象的で、その後もずっとここの部分を覚えていたのですが、今になってみると何故この言葉が用いられたのか、わかるような気がします。西浦上村時代から浦上川沿いは、キリシタン信仰の厚い地であり、木造であるがゆえに全倒壊した旧校舎に代わった鉄筋コンクリート造の校舎は、まさに希望と念願の「白亜の校舎」であったことでしょう。また校舎の形は今考えると、中央に大きな正門と階段棟があって、その両側に対照に棟が翼を広げたようにつながっています。校歌の「翼ひらきて」の言葉には平和の象徴である鳩が飛翔している姿(設計)という意味が込められていたわけなんですね。
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訪れたこの日は「長崎っ子の心を見つめる教育週間」の学校公開日であり、ちょうど被爆体験講話集会が行われていました。
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講話は紙芝居形式で行われていました。被爆時に足に重い火傷をおった方が、ハンディにも負けず希望を胸に小学校へ入学したのですが、びっこをひく姿を「ガネ(蟹)」とからかわれたなどの、辛い体験が語られていました。
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西浦上小学校の発祥は滑石地区にある大神宮なのですが、一時期教場はこの住吉神社の近くにありました。
この神社も被爆遺構のひとつなのですが、やはりほとんど知られてはいません。
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見ての通り、拝殿は新しいものですが、その前にある一対の狛犬が原爆の受難に遭っています。
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右側の狛犬の左前足が欠けているのは、原爆の爆風によるものです。しかし、傷をおっても直毅然と立ち続けるこの狛犬の姿に励まされてか、同神社には参拝に訪れる人が絶えません。
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拝殿のすぐ横にある楠の大木もまた原爆の爆風と熱線を浴びています。正面側に枝葉が少ないのは、この方向に爆心地があるためです。
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昭和23年に新築移転した「白亜の校舎」も、だいぶ老朽化が目立ってきました。しかし、67年前、命がけで守り通した重要書類を保管する同校は、今日もこの地にあって健児たちを育てているとともに、平和の尊さを今の世に訴え続けています・・・。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月