西彼杵郡長与町岡郷岡。多良見町へ抜ける海岸沿いの207号線が大村湾に接する辺りと言えばいいのでしょうか。
高校時代の友人が岡郷の出身だったので、私はかろうじて場所の見当がつくのですが、ほとんどの人は車で通過していくだけで、その土地名も知らないだろうと思います。
IMG_0029

しかしここに昭和55年まで長与小学校岡分校は確かにありました。
同町の図書館に何度も通い、資料を探しましたが、岡分校については簡単な沿革だけで、写真については、ついに1枚も発見することが出来ませんでした。
IMG_0027

本当にこんな場所に分校はあったのでしょうか・・・・

岡分校の記憶・記録については、またもや昭和47年発行・岩崎書店刊、「子ども日本風土記(長崎)」の中の児童作文に求めるしかありませんでした。

「 開拓村のわが家 」
                              西彼杵郡長与中学校二年 岩永 隆介

終戦後、父と母は、赤ん坊だった長男をつれて、満州からひきあげてきた。佐世保に上陸。久留米の祖父母の家に一応落ち着き、昭和24年、長与村にきた。そして姉が生まれた。国からの補助金と、炭焼きなどをして生活しながら、村の勧誘の開拓団に、ほかの21戸とともに入植し、雑木の生い茂った山を開墾し始めたそうだ。
(一部略)
そして家も建ったのだが、30年頃の12号台風で、開拓の家が全部のように倒れてしまった。それでまた借金をして家を建てなくてはならなくなってしまった。このころは借金、借金で、とても大変だったそうだ。一時は食べるものもなかったそうだ。そのころは、まだこの開拓地で生活はしていなかった。前田川内に家を借りて住んで、父母は、朝、ここの家から開墾にでかけ、夕方帰ってきていた。そのうち、開拓地にも、雑穀や、野菜などがつくれるようになったので、父母とぼくの三人だけやってきて、畑仕事に精を出した。
だが、冬の間が大変だった。家もまだよくできていなかったので、すき間から、雪がはいりこんできて、朝になると、ふとんの上は、真っ白ということが、たびたびあったり、買い物に、店のあるところまでいけなかったりしたこともあった。
前田川内にいた祖母、兄、姉、弟が、ここにやってきたのは、33年4月、ぼくが小学校に入学する少し前だった。このころは、まだ電灯がなかったので、うす暗いランプだ。ラジオも、テレビもない。本も、暗いから、あまり読めなかったから、夜の楽しみがなかった。
 ぼくは開拓のもうひとりといっしょに、34年4月に、長与小学校岡分校に入学した。そして本校に通っていた兄、姉や他の仲間といっしょに通学した。
35年に、兄が中学校を卒業し、遅々といっしょに開墾の仕事をした。このころは、今までの借金を返すのにたいへんで、自分の家の畑だけでは、まだ、これといった作物がなかったので、生活がしていけなかった。それで、よその家の畑を開墾する仕事をしていた。
(中略)
("夜間の水道工事をしていて胃潰瘍になり、入院していた父もやっと退院し少しずつ元気を取り戻してきた")
父は、「お前たちが、一人前になるまでは、元気に働かなくては」とよういう。
こうして入植して、いっしょに生活してきた人も、いろんな問題があるのだろう。入植当時、21戸だった家が、だんだん減って、今では9戸あるだけとなった。いっしょに通学したり、遊んだりした友達が、だんだん減り、学校に通っている人は、数人だけとなった。ほんとうに、さみしくなってしまった。
(後略) 』


のどかな景色からはまったく想像できないような作文ですね。
でもこれがたった50年ほど前のどこにでもある家族の姿だったのです。


「岡」バス停から山側に登る細い道の先に岡分校はありました。
IMG_0026

古い石垣と桜、そして校門の片方だけが残されていました。
IMG_0015

「長与村立長与小学校 岡分校」とあります。
この地に分教場が出来たのは明治33年。岡分教場として尋常科1~2年生を収容。当面の間白髭神社が教場として使われました。
明治34年満永の、この地に移転落成し、「長与村立長与小学校岡分校」となり、同44年の町制施行によって「長与町立長与小学校岡分校」と改称しています。したがって、校門のプレートがレプリカでなければ、明治34年のもの、ということになります。
IMG_0025

今は「満永公園」としてゲートボールなどの憩いの場として使われているようです。

その後の岡分校の沿革は・・・

昭和23年9月 新校舎落成
同26年4月 給食室落成
~29年迄 1、2年及び3、4年の複式が続く
同30年4月 1年単式、2、3年複式となる。
同31年9月 
同31年10月 運動場拡張工事完成
同55年 廃校
IMG_0022

ここは運動場だった場所ですね。片隅に残る鉄棒は小学校時代からあるものでしょうか。
IMG_0016

校舎が建っていたであろう場所です。学校時代の痕跡を探してみましたが、何も残ってはいませんでした。
IMG_0017

ひと気の無い敷地には湧き水が流れている場所があり、赤トンボが羽を休めていました。
IMG_0018

ランドセルを背負った子ども達が期待を胸に、この桜の木を通っていた姿が瞼に浮かびます。
IMG_0021

仕事に追われ、今のように自家用車などもなく、歩道や街灯も整っていなかった時代、まだ幼い子ども達が自分で歩いて通える小学校が近くにあったことは、親たちにとって、どれだけ有難く、心強いものだったでしょうか・・・。
IMG_0023

しかし、今また親が仕事に追われ、送り迎えなどが容易にできない時代がやってきています。少子化・合理化により分校や小さな学校が毎年何校も消えていっていますが、これは本当に未来につながるのでしょうか?
「人は去り、変わってゆきますが、毎年同じ彼岸花は見る人がなくとも、咲き続けています・・・。





もし当時の岡分校の写真をお持ちの方がおられたら、当記事にてご紹介させていただけると幸いです。