近世までは白魚漁なども行われる湿地帯であった浦上川流域。近代になってからは埋め立てを進めながら市街地として発展してきた場所でしたが、1945年8月9日の原子爆弾投下によって同河川は、全身を焼かれた重篤な被災者たちが水を求めて集まり、そのまま死亡した亡骸で埋めつくされました。
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1万とも2万とも言われる亡骸は、そのまま河床や河川敷に放置され、少なくとも被爆後一年間くらいは、そのままであったといいます。
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全身を焼かれた人も、そうでなかった人も灼熱の大地にあって水は文字通り「命の水」でしたが、放射能によって汚染された水を飲むことは、当時の人々が知る由もない「内部被爆」を引き起こしました。せっかく即死を逃れた人であっても、この内部被爆によって命を落とした人も少なくありませんでした。
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被爆後、爆心地に近い一帯は「とても人が住めない」ということで、立ち退き勧告が出され、多くの人々が浦上の地を離れ、親戚や知人をたよって全国へと散っていきました。しかし、中には幼い子どもだけが残されたり、重篤な怪我人・重病者を抱え移動できない人々、またよそへ移っても「原爆病はうつる」というあやまった偏見のために戻らざるをえなかった人々らは、焼け焦げた瓦礫を集めてバラックを作り、この地で生活を始めました。
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上に見える場所は活水高に近い、この辺りでしょう。河川敷であり、湿地なので増水などすればとても危険で住めるような場所ではないことがわかりますが、ここに小屋を建てたということは、他に行き場がなかったのでしょう・・・
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今年(2012年)の「長崎っ子の心を見つめる」教育週間において、市内の小学校で聴いた「被爆体験講話」。
その講師であった下平 作江さんも城山国民学校に通っていた10歳の時に被爆して、その後浦上川に近い原子野で暮らされています。その凄絶なお話の一部を下に付記しておきますので、読んでみてください。
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『・・・そうして私たちは学校から帰ると、アメリカの兵隊さんが大きな穴を掘って残飯を捨てますから、それを急いで拾いに行って分けあって食べました。病気になっても、お金がないので病院にかかることができなかったのです。妹は苦しんで、体が腐っていきました。うじ虫もたくさん湧きました。電灯も何もない暗闇の中で、ぐちゅぐちゅと音がします。うじ虫が妹の肉を食っているのです。「姉ちゃん、うじ虫がうちの肉を食いよるけん、取ってくれんね」と言いますが、昼間なら取ってあげられますが、灯りがありません。真っ暗闇で取ってあげられなかったんです。「我慢せんね、夜が明けたら取ってやるけん。」夜が明けて、立ち上がって妹の足を見ると、一晩中妹の肉を食べたうじ虫は丸々と太って、ぽたぽたと足元に落ちました。私たちは頑張って生きていこうと、約束をしましたが、妹は苦しんで、「姉ちゃん、こげん苦しむとやったら、お母ちゃんのところに行こう」と泣きます。「だめだ、せっかく生き残ったんだから、頑張って生きていこう」と私がはげますと、「うん、頑張らんばつまらんね。」と言っていた妹も、とうとう貧しさに負けてしまいました。
ごみばかりあさって、缶詰めの缶を拾ってきて、缶に残っている食べかすを食べて生きていかなければならない生活に負けて、妹はとうとう帰ってこなかったのです。どこへ行ったんだろう、と探してみたら、「おーい、若か女の人が列車に飛び込んだぞ」という声がしました。妹が帰ってこないので、大人の人の後ろに私もついて走って、大橋の線路のところに行ってみました。びっくりしたんです。お腹が腐って、うじ虫が湧いています。顔は大きくぐじゃぐじゃに崩れて、腕と脚は切断されて、どういう風にしていったのか分かりません。「あっ、妹です。」と叫びました。「どうして妹と分かるとや。」と聞かれたので、「お腹にうじ虫の湧いているのが妹です。妹が帰ってこないんです。」と答えました。その頃は1日に4人も5人も列車に飛びこんだのです。なぜかというと、お父さんお母さん、友達もみんないなくなって淋しくて苦しくて、「死んだほうがましかなあ」と多くの人が思ってしまったからです。そうやって、妹も列車に飛び込んで、ぐじゃぐじゃになって死んでいきました。「なぜ死んだの、なぜもっと頑張らなかったの。」と声をかけました。市役所の人が箱を持ってきてくださいました。私は妹をしっかりと抱きかかえて、箱におさめました。私の服は妹の血液で真っ赤になりました。警察の人がいっぱい来て「なんや、この死体は。よっそわしか。腕のなかやっか。脚はどこさ飛んだとや。」といいます。私は線路を行ったりきたりして、妹の脚を1つ、2つ拾い、腕を1つ2つ拾って箱におさめました。リヤカーに乗せて、一人でとぼとぼと稲佐山の下の火葬場に連れて行きました。』

・・・いくらなんでも、遺体をひろう家族の前で、遺体に対し「よそわしか(汚らしい、相手をさげすむ時に使う言葉)」・・とは。時代が時代とは言え、ひどすぎて言葉がありません。これが今2012年からたった67年前の状況だったのですね。


川の中に放っておかれたたくさんの遺体やお骨。まだまだ多くが河床に眠っているかもしれません。
そういうことを思ってか、そうでないかは定かではありませんが、浦上川の河川敷には草花の世話をする人やゴミを拾いながら散歩をする人の姿が絶えません・・・。
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下平 作絵さんの、ある講演での講話全文

「被爆のこと・遺構・建造物」 記事一覧




*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月