夏が近づくにつれ、多くの観光客や修学旅行生たちが訪れる「原爆落下中心地公園」。そこから目と鼻の先にある下の川橋のたもとに被爆の惨状を伝える案内板が立っています。しかし、幅の広い国道を隔てた反対側にあたるために、ほとんど訪れる人もありません。
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案内板の中の写真は、被爆直後にこの地で撮影されたもので、何とも痛ましい被害の様子が写し出されています。
溝の中には多くのご遺体が写っているので、白いスクリーンを被せています。
慎みまして亡くなった方々に対し哀悼の意を表します。
JR(国鉄)線と路面電車の軌道の交わっていたこの場所において、走行中であった路面電車が木っ端微塵に破壊され、乗車中であった人々は溝の中に飛ばされています。ほぼ爆心地であったためか、柱がなぎ倒されず直立したまま残っています。
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写真に撮られた場所は、軌道の移動や道路、河川の改修によって大きく変わってしまっています。もはや当時と変わらぬものは、下の川の流れだけかもしれません。
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しかし、大切なご遺族や仲間をなくした方には、多くの重篤な負傷者が亡くなった川辺は鎮魂の場所であることに変わりはありません。たまたま行ったこの時も、ひとりの市民の方が川面を見つめながら長い時間たたずんでおられました。どういったことで、そうされていたのかはわかりませんが、少なくとも気安く話しかけることができる雰囲気ではありませんでした。
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道路を隔てた公園側にはこの日も多くの外国人など、多くの観光客の姿がありました。
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案内板のそばには昭和21年に浜口町が原爆に遭い亡くなった人々の霊を慰めるために建てた碑がありました。
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同地付近の橋を渡っていく路面電車。運転士さん達も殉職地であることを意識しているのか、ややスピード・ダウンして通っているようでした。(またこの橋のそばには市民が線路を渡る小路もあることもあり)
背後に見えているのが活水女学院高校(被爆時は鎮西学院)と稲佐山です。
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下の川橋の近くに建っていた三菱重工のアパート群も解体が進みました。私の場合もそうだったですが、アパートに生まれ育った人たちの「故郷」は、残念ながら消えてゆくということになります。
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アパートの向こう側に見えるのは、商業施設「長崎西洋館」です。この場所には戦後、閉山となった炭鉱の社宅を移築した国鉄職員の社宅街がありました。

見るたびに切ない三菱浜口アパート
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アパートの写真を撮っていると、通りがかったお年寄りの方から声をかけられました。「ここに住んどったとね?」と。
聞けば、この方は国鉄職員であった方で、原爆投下時は非番の為、自宅の城山町で被爆されたそうです。ちょうど息子さんが庭で遊んでいたそうで、炸裂の直前、「あ、B-29の落下傘ば落とした(原爆)」と言ったのを聞いていたそうです。
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城山町と言えば、下の画像の中にすっぽりと入ってしまうような場所です。こういった場所で被爆されて、生き残られたのは、本当に奇跡ですね。「16」の場所にある建物が被爆後、一時廃校が決まっていた城山国民学校です。
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取り壊されつつあるアパートが建っていた場所は、かつて「巨人-三菱」戦も行われた三菱球場があったでした。
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球場のすぐ北側にあった社宅に住んでいたという方から、以前住宅の資料写真を探されているという話をうかがっていたので、もしやお持ちではないかとたずねてみましたが、だめでした。
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平和学習コースからも外れている、小さな川のほとり・・・。なんでもないような場所もやはり鎮魂の場所なのです。川のほとりに佇む人。語ってくれた被爆体験と首筋にくっきりと残る被爆の傷跡・・。小さな川のほとりは、多くのことを語りかけてくれました。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月