2011年10月29日(土)に放送されたNHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」をできるだけそのままダイジェストにまとめたいと思います。
原爆投下についてのドキュメンタリー番組であった同番組を通して「戦争とは何だったのか」について、あらためて考えてみたいと思いました。

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戦時中であった昭和20年3月に東京がB-29編隊による大空襲を受けたことをきかっけにして、その4月、東京・杉並区に大正時代に建てられた老人ホーム跡に、参謀本部直属の部隊である「陸軍特殊情報部」が秘密裏に置かれました。
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その存在すら極秘であった同部隊の任務はB-29が発信するモールス信号を傍受することで、100人あまりからなり、24時間体制でその任務にあたっていました。
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B-29が発信するモールス信号は全て暗号化されており、その内容を解読することはできませんでしたが、その信号の中に一部だけ暗号化されていない部分がありました。
それは最初につく「コール・サイン」と呼ばれるもので、かならず「V-530」など、頭文字のVと3桁の数字からなっていました。
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そのコールサインをていねいに追っていくと、諜報部隊は米軍基地のあった島ごとによって最初の数字が決まっていることに気がつきました。
それはサイパン-V400番台、グアム-V500番台、テニアン-700番台となっており、コールサインさえ傍受すれば、いつその島から何機のB-29が飛び立ったか、予測できるようになりました。
もちろんその機密情報は特殊情報部から参謀本部へと伝えられました。
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しかしある時、突然テニアン基地からV-600番台を使う新たな部隊が出現しました。
今までは100機以上のB-29からなるのに対し、新部隊は12~3機からなる異様に少ない部隊であることから特殊情報部では、V-600番台を使うB-29を「特殊任務機」と呼び、監視人数を増やして警戒しました。
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もちろんそのV-600番台を使う新部隊こそ、原爆投下部隊だったのですが、ちなみに日本でも昭和18年の春頃から原爆開発にやっきとなっていました。
しかし、資材不足や激化する空襲の影響もあって20年の6月末に原爆開発を断念しています。
その直後20年7月にはアメリカ・ニューメキシコ州で米軍が原爆実験に成功し、その情報は日本軍の中枢部にも伝わりましたが、米の成功を認めたくなかったのか、それが「原爆」であるとは発表していません。
しかし、開発に携わった学者によると、それが「原爆であると、気づかぬはずはない」と述べています。
(写真は原爆投下部隊であった、第509混成群団)
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昭和20年8月6日午前3時頃、特殊情報部は日本に向かう「V-600番台」を傍受し、たちまち緊張が走りました。
機はワシントンに向け、短い電波を発信した後、テニアン基地に対し「我ら目標に進行中」という内容の無電を打ちました。
その頃、広島城地下にあった軍司令部では、未明にあった西宮・今治・宇部への空襲のために警戒を強め、徹夜で待機していました。
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投下から約1時間前である7:20頃、特殊情報部は豊後水道に侵入してくるB-29をとらえました。やはりV-600番台を使うそのB-29は、豊後水道で電波を出した後、広島上空でも短い電波を出しました。
それがおそらく「気象偵察機」であると気づいた特殊情報部は、「これはただごとではない!」として、すぐに軍参謀本部にそのことを連絡しました。
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しかし、警戒を強めていた広島の軍司令部には参謀本部から何の連絡もいかず、広島の司令部は警戒体制を解除してしまいます。
原子爆弾を搭載したB-29エノラ・ゲイの前には1機の戦闘機もなく、高射砲による砲撃もありませんでした。
そして運命の8:15、無防備となっていた広島市民の上に原子爆弾が投下され、多くの尊い命が奪われました。
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翌8月7日、参謀本部は内部では投下された爆弾が原子爆弾であると認めていたにもかかわらず、対外的には原爆とは認めていませんでした。
それなのに8月8日、参謀本部は「原爆機のコールサインをつきとめた」として特殊情報部を表彰する式を行っています。その式場で幹部は「今度、同じようなコールサインが出れば、それを全部追跡して撃滅する。お前さんらみんな、ごくろうさんだった。」などというねぎらいの言葉を情報部員にかけたと言います。

つまりその言葉に従えば、次の原爆投下機はみすみす素通りすることなど、できなかったはずです。

しかし、翌8月9日未明、再びV-600番台を使うB-29がテニアン島を飛び立ったことを特殊情報部はキャッチしました。このコールサインを実際に傍受した大田新生中尉は、「数時間後に日本のどこかに爆弾が落とされる危険大!」としてすぐさま中枢部に伝えています。

参謀本部にその情報が伝わったことを裏付ける資料が「防衛研究所戦史部」で発見されています。その資料とは当時の参謀本部中佐の走り書きで、「(長崎原爆の)投下5時間前に、通信上事前に察知していた」とありました。つまり長崎への投下11:02から5時間前の午前6時頃には、参謀本部には特殊任務機(原爆投下機)が再び日本に向かっていたことが伝わっていたわけです。
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情報部によってとらえられていたB-29ボックス・カーは原子爆弾「ファット・マン」を搭載したまま、午前9時頃九州に接近していました。最初の投下目標地点である小倉に向かう為です。しかし、小倉上空が厚い雲に覆われていたため、ボックス・カーは第2投下目標である長崎へと進路を変更しました。
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その頃、長崎県の大村には九州一帯の防空の拠点であった海軍航空隊基地があり大村航空隊や第三五二航空隊がB-29編隊の来襲に備えていました。

大村基地所属の部隊で、高高度まで上昇しB-29を攻撃できる戦闘機「紫電改」のパイロットであった本田 稔さんらは出撃命令を待ち、基地で待機していました。
本田さんは8月6日、偶然兵庫から大村へ帰る途中、広島上空で原爆が炸裂した瞬間を目撃しています。原爆とはわからずとも、新型爆弾が街を一瞬にして焦土に変えたのに衝撃を受け、今度B-29が爆弾を投下しに来たならば、体当たりをしてでも落とそうと心に誓っていました。
(中央が本田さん)
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雷電や月光、零戦とともにB-29迎撃を任務としていた「紫電改」
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しかし、本田さんらに出撃命令は出されませんでした。実際にB-29を落としたこともあると言う本田さんらに与えられた任務は、長崎から運ばれた重症の負傷者を海軍病院に運ぶ仕事でした。


ボックス・カーが刻一刻と長崎に接近している間、軍の上層部では最高戦争指導者会議を開いていました。特に10:30にはソ連軍が戦線布告して満州に攻め入ったという報が入り、「ポツダム宣言」を受け入れるべきかどうかを議論していましたが、最も心配な事のひとつは「降伏した場合、戦争犯罪人として自分達は裁かれるのではないか」という心配であったようです。
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そして11:02。またしても空襲警報すら出されないまま、長崎市民の上に原子爆弾が炸裂しました。
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負傷者を運ぶ役目であった本田さんが見たものは、もはや男とも女ともわからないような全身焼けただれ、肉の塊と化した被爆者たちの姿でした。
本田さんは、「こんなひどいことが世の中に許されるのか!」と泣けて仕方が無かったと言います。また、軍人として本当に情けない、申し訳ない・・と。
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本田さんは戦後66年あまり経って初めて、軍の上層部が5時間も前に原爆投下機の存在をキャッチしていた事実を知ります。
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「わかっとった?ほんじゃなんで命令を出さんとですか?そしたら、5時間もあれば十分に待機できたはずですよね。」
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「それが日本の姿ですかね?こんなこと許しとったら、こんなことまた起きるんじゃないですか!」
これが本田さんの結びの言葉です。
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終戦間近、特殊情報部は命令により傍受記録などを含め、全ての記録・資料を証拠隠滅の為に焼却するよう命じられます。
特殊情報部という存在すら「無かった」ことにさせられたのでした・・・・。



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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月