時津港に近い時津川のほとりに建つ時津町立図書館と時津保育園。
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そこはかつて、時津村立時津国民学校と高等実業青年国民学校が建っていた場所でした。
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1945年8月9日11時2分に原子爆弾が投下された時は、爆心地から6km以上離れているにも関わらず、かなりの爆風がここにも達しています。



そして数時間後、長崎市内方面から続々と負傷者たちが運ばれてきて、時津国民学校と高等実業青年国民学校はたちまち臨時の救護所となりました。その多くは、顔面が西瓜のように腫れ上がり、男女の区別さえつかない状態であったと言います。付近の住人は救護所にあって救護活動にあたりましたが、薬ひとつなく、ただ体の汚物や膿を拭いてあげたり、ウジをとってやるより他になす術も無かったようです。
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学校が建っていた眼前には時津川の豊かな流れがありました。瀕死の負傷者たちは呻きつつも、口々に「水を・・」と言い続けていたそうです。これ熱線により体のほとんどが焼けただれ、皮膚呼吸ができなくなっていた為でした。
夏の日に、指先にサックをつけて事務作業をしているだけでもすぐに不快になってきます。全身を焼かれた負傷者たちは、どんなにか苦しかったでしょうか。(画像は図書館の屋上より)
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少し先に見えているのは、移転した現在の時津小学校です。ちょうどこの時、子どもたちが、理科の授業か、屋外で活動をしていました。
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現在のこの地には、いわゆる当時の遺構は何も残っていませんが、少し離れた小高い丘の上に救護所で亡くなった多くの方を霊を慰める慰霊碑が立っています。
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今はお年寄りの方たちのゲートボール広場となっている一角に、その碑は立っていました。
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この時は4月でしたが、ちゃんと花が供えてありました。そして毎年原爆の日には、この碑の前で祈念式典が行われているそうです。
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こんなに豊かな流れが近くにあっても、救護所では「水を与えたら死ぬので、絶対に水を与えてはいけない」と厳しく軍医などから止められていたそうです。それでも少しずつ飲ませていた方もいたそうですが、ほとんどの人が「水を与えてなくても、やがては亡くなる」とわかっていながらも、やはり水を与えてやることができなかったそうです。そして、そのことを今でも心苦しく思われている方が少なくはないようです。

川の向こうの小学校校舎の背後には、たまたま私の長女が生まれた病院の塔が見えていました。
なんでもない川の流れに見えますが、「命の流れ」というものを感ぜずにおれませんでした。
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この付近の山中には原爆でなくなった多くの方が眠っていると思います。その遺骨の多くは遺族の元に帰ることも叶わなかったでしょう・・・・。

今、この地に建つ時津図書館は「日本一感じのいい(と私には思える)職員さんたちの運営する図書館」であることは、何よりの慰めであるとおもうのです。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月