長崎原爆資料館に展示されている、この鉄製の給水タンクは、原爆の熱線により、まるで飴のように鉄骨が曲がってしまっています。
この給水塔は、旧長崎県立瓊浦中学校(現在、長崎市にある瓊浦高等学校とはまったく別)にあったものです。
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今でこそ、このように屋内に展示してありますが、この被爆鉄塔は、長い間、爆心地公園の一角に置かれていたものであり、何の案内板も柵なども無かったので、我々にとってはそれこそ「ジャングルジム」のようなもので、よく鉄骨に登って(その頃は倒してあった)遊んでいたものです。それで、別に大人から怒られるというようなこともありませんでした。
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このぐにゃりと曲がった鉄骨の感触は、実は今でも手の中に残っているのですが、今にして思えば、多くの方が亡くなった場所の遺構であるし、被爆後20年以上経っているとは言え、放射性物質の影響を考えれば、少なくとも子どもが登って遊ぶべきものではありませんでした・・・。
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原爆投下時、木造であった14棟の全ての校舎は強烈な爆風により、ぺしゃんこに押し潰されました。生徒の大半は当時、三菱兵器大橋工場や三菱長崎製鋼所へ動員されており、この地にとどまっていた生徒・教師は約60人だけでしたが、多くが瓦礫に押し潰されたりして無残な死を遂げています。
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現在の同地です。瓊浦中学校は昭和20年8月23日に県立長崎中学校内に移転し授業を再開後、同22年4月には山里小学校内に移転。23年4月1日に「長崎県立瓊浦高等学校」として古巣の竹ノ久保校舎に移ったものの、わずか7ヶ月後の11月30日には公立高校統合により「長崎西高等学校」となり、その名は消滅しました。
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スロープの途中にあった樹木もほとんどがなぎ倒され、あるいは焼き尽くされましたたが、画面中央に見える3本のクスノキは、幹を熱線に焼かれながらも、その後蘇り、現在もご覧のように葉を茂らせています。(爆心地側には、やはり枝が伸びていないようです)
瓊浦中学の校訓「不撓不屈」の精神をこのクスノキが受け継ぎ、多くの高校生たちをこれまで見守ってきたのでしょう。
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クスノキとは離れ離れになりましたが、給水タンクもまた、その「不撓不屈」の精神と核廃絶を訴え続けていることに変わりありません。

原爆とともに放出された放射線と放射性物質。大半が土中や海底に流され拡散されたとは言え、プルトニウムの半減期は約2万4千年。このデータは当時の科学者が認識していたからこそ投下後数日中に「今後70年は人が住めない土地になった」という噂が広がったのでしょう。

その70年間より50年あまりも早い昭和40年頃、幼い私や兄は、この給水タンクの上で遊んでおりました・・・・。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月