キリシタン一揆である「島原の乱」から今年、2012年でおよそ375年。乱鎮圧後、徹底的に破壊され、石垣すらも土砂で埋められたこともあり、その舞台となった原城址(南島原市南有馬町)には、「まったく何も無い」と言われていますが、本当にそうなのでしょうか・・・。
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確かに原城址一帯は、広大な丘陵が広がるばかりとなっています。
(画面奥に見えるのは「原城一揆まつり」で立てられた「一夜城」の巨大な看板です。)
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しかし発掘された石垣の石にはキリシタン一揆軍が刻んだと思われる文字(マーク)がくっきりと残っていますし・・
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瓦の破片などもたくさん転がっています。
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また、この木の根などは、土中でどういう状態にあったかわかりませんが、焼け焦げているようにも見えますね。
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乱鎮圧後、この場所にあった建物は徹底的に破壊され、石垣の石や瓦礫とともに死体まで一緒に穴に投げ込まれ、埋められたと言います。
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この窪みには、子どもや老人などの非戦闘員を収容していたそうです。もちろん落城後はひとり残らず全員が殺されました。
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原城は海側は断崖になっていますが、浅瀬であるために砲艦などは近づけませんでした。しかし、兵糧攻めにあった一揆軍は食料調達も叶わず、追い込まれていきます。
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「島原の乱」を語る時、時代背景を無視することはできないでしょう。時は3代将軍・家光の時代ですが、3代続いた厳しい専制政治により大名でさえ完全に抑圧されていたのが、この時代でした。
直接の原因は島原藩主松倉勝家の領民への容赦ない取立てと残虐な仕打ち(未納の者に蓑を着せた上で縛りあげ火をつけた「蓑踊り」など)だったわけですが、完全なる身分社会の世にあって、低位に置かれた民衆が蜂起したという事実は、かなり衝撃的な出来事だったことでしょう。
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地元の資料館にある当時の勢力配置図。
「小浜、串山、有馬、三会、布津、加津佐、口之津、有家」といった現在も町名として残るキリシタン村民の名が見えます。
南島原にいた全てのキリシタンたちは、この地で全員死し、その子孫は途絶えました。徹底した山狩りによって残存キリシタンも排斥され、代わりに西日本の各地より移民が入植することとなりました。
よって、現在でも尚、島原の地にはキリシタン墳墓はありますが、教会堂などはほとんどありません。
「今も島原半島にキリシタンを祖先とする人がほとんどいない」のは、この「島原の乱」の歴史の証しでもあるわけです・・・。
(長崎市などでは、私の友人で祖先がかくれキリシタンであったというケースは、めずらしくありません)
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島原の乱後、徳川幕府~明治政府と受け継がれたキリシタン弾圧は、ますます強固なものとなるのですが、「一般人民が手を結び、圧政者にアピールする」という意味では、後の民主化運動に少なからぬ足跡を残したと言えるのではないでしょうか。

同地に残る「ホネカミ地蔵」。このお地蔵様の傍らにはは、「有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を敵・味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である」との立て札があります。
人々が平等に平和に暮らすことをただただ願い散っていった多くの命をいとおしむかのように、今もお地蔵様はこの地に、静かに立っています・・・。
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