「被爆クス」と聞くと、山王神社の大クスをまず連想しますが、もちろん長崎市内には多くの被爆木が存在し、その中には何本かのクスの木があります。
長崎市立稲佐小学校のグラウンド隅にも被爆クスがあります。
石段を登ると、そのクスが見えてきます。
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ちょっとショックなことに、クスには一枚の若葉もありませんでした。被爆後も緑をつけ、多くの子どもたちを見守ってきたクスの木ですが、枯れてしまったのでしょうか・・・(同小HPには治療中とありますが・・・)
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ここ稲佐小学校は爆心地から約2km。被爆時には南側木造校舎は倒壊し、北側の鉄筋コンクリート3階建て2棟も窓ガラスが割れ、窓枠は全て壊されました。当時在籍していた児童870人の内、105人が亡くなったと推定されています。
下画像、向かって左側が爆心地方向ですが、明らかに爆心地側に枝が伸びていないのがおわかりかと思います。
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被爆直後から救護所となり、多くの負傷者がありの行列のようにこの場所へと続きました。また9月頃からは校舎使用不能となった城山、淵、銭座の3国民学校が、間借りしてきて、苦しいながらも助け合って授業を進めました。
当時、クス以外にも周囲のレンガ塀やコンクリート校舎など、被爆遺構は児童教育を支えてきたのですが、平成3,4年度に全てが取り壊され、クスの木だけが、ぽつんと取り残されていました。

↓今年も咲きはじめた桜の向こうに見える被爆クス。たとえもう緑をつけることがないとしても、この場所にいつまでも立っていて欲しいと思います。
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ところ変わって、滑石(なめし)平宗地区。大井手川のほとりに立つ、このクスも被爆木です。
古くは「26聖人」が歩いた浦上街道沿いであり、国鉄による最前線救護駅となった道の尾駅からも歩いて数分の場所です。
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ここは爆心地から約3.8km離れているとは言え、原爆が炸裂した瞬間には、多くの家屋が倒壊・破損した場所です。
当時、西浦上国民学校の4年生だった田羽多さんは、「夏休みで6,7人と大井手川で泳ぎ疲れて、川の護岸で休んでいる時、閃光が走った。とっさに身を伏せ無事だった」と証言しています。その後、画像に見える川面は、道ノ尾駅を目指し、這うようにして逃げてきた人たちが水を飲みにきて、そのまま折り重なるようにして亡くなった、その屍で覆いつくされることになります。
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そんな歴史を知る人も、今ではほとんどおらず、誰からも忘れられたようなクスの木ですが、幸いにもこのクスの木は、地元の中学生たちが平和学習を行った際に、このような案内板を立ててもらっています。
指導にあたられた教師たち、そして生徒たちのあたたかな思いが、伝わってくるかのようです。
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こういうものが、何故大事かと言うと、「平和学習」は平和公園や原爆資料館でのみ行うものとなってしまうと、その場所を離れた瞬間に実生活とは切れてしまう恐れがあります。
しかし、こういう案内板を設置する事により、
『 被爆時、即死者は%としてはマイナーであり、大部分を占めた重傷者たちは、山岳地帯や鉄道のある北部へと逃げた。従って西日本各地より駆けつけた救護隊と瀕死の重傷者たちとのやりとりや、家族を探す被災者たちの命のドラマは、このような場所が舞台となった。 』
『 その後、被爆者たちは、知人や親戚を頼って、全国に移動していったが、それは「原爆症」と「被爆地から来たという差別」との新たな闘いでもあった 』
・・・ということがわかってくることとなり、結果的に『 平和学習は、その場所だけで行うものではなく、自分の住む場所にまでつながってくる 』という拡がりが期待できると思うのです。

(画像は、クスのすぐ向かい向かいにある理容院。歴史を知るとその後の街の興りもおのずとわかってくるようです・・・)
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