地図上に「川棚町郷土資料館」とあったので、早速行ってみました。なかなか立派な資料館でした。建物は古いのですが、よく資料が集められ、整理されていました。

海軍工廠についても詳しい展示がされていました。画像は工廠時代と現在との定点比較ですが、こういう展示の仕方は非常にわかりやすいですね。川棚高校や中学校校地にも戦後までは宿舎が建っていたようです。
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「工員宿舎は現存数は極めて少ない」と資料集などにはありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。疑うわけではありませんが、あまりそういうものを鵜呑みにせず、実際跡地を歩き、人に聞いてみることにしました。

けっこうそれらしい建物が幾つも目に付きます。
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戦後の25年前後は「文化アパート」など、鉄筋コンクリート(RC)のアパート建設が主流でしたので、こういった同じつくりの木造住宅が、戦後30年頃より後に出来た、というのは考えにくいように思います。
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付近にお住まいの年配の方にたずねても、やはり「工廠時代からある建物だ」という答えが返ってきました。
窓の上の庇にも意匠が凝らしてあるところから考えると、ある程度地位の高かった所員さんが入っていたのかもしれません。
どっちにしろ、約60年前5万もの人口を支えた住居の形跡が残り2~3棟というのは土台無理があるでしょう。
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板壁にも年月の経過が表れていますね。
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さて「町の人口を7千から5万にした海軍工廠」と聞けば、ここに巨大軍需産業があったようなイメージに聞こえますが、内実はそのイメージとは違っていたようですね。(資料館内の展示より)
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下の画像からわかるように、製造できた魚雷もせいぜい月に10~20本程度だったようです。
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工廠で作業にあたったのは、九州一円から「学徒報国隊」として集められた、中・高校生たちが多数を占めていたようですね。写真で見る限り、管理していた男性も年配の方ばかりのように見えます。いかに戦況が悪化していたかが、うかがえます。
(クリックで拡大)
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次に目指したのは高射砲陣地跡です。
延べ15、6人の年配の人にたずねたのですが、大半は「知らない」という答えでした。
3人の男性の方が「ある」と答えたのですが、1人はまったく違った場所と勘違いされ、1人は「あの辺りと思うが、あるかどうか」というもの。たった1人だけが正確な場所を知っておられました。
この地における戦争の記憶もかなり風化が進んでいる、と感じました。

結局、約一時間迷いに迷いました。
最後には「自分が軍幹部だったら、どこに高射砲陣地をつくるか?」という勘を頼りに進み、やっとの思いで発見に至りました。
「旧建築学校跡」に構築されたという高射砲陣地は、この剣道場の近くにあります。
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手前の畑の周りの石組みがそれらしいな・・と進んでいくと、それは現れました。
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海軍工廠を守っていた、高射砲陣地跡です。
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コンクリートに刻まれた溝。高射砲の角度を合わせるためのものでしょうか・・・
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確かにこの場所からは工廠を含む町内一帯が見渡せます。同じく工廠のあった佐世保と大村には大空襲があっているので、ここにいた高射砲隊員は緊張の連続であったでしょう。
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しかし、幸いにもここの高射砲隊はさしたる出番も無く終戦を迎えることができました。不思議にも川棚海軍工廠には空襲がなかったのです。
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その理由?が資料館に掲示してありました。本当に「ビール工場は残しておけ!」とアメリカ軍は指示をだしていたのでしょうか?
もしそれが真実であるならば、少しほっとするような気がします・・・
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ある地元の方が言われた言葉が印象的でした。
「長崎は、なんでんすぐ壊してしまう。もう、なあんも無くなってしもうた・・・」
青春の一時期をこの地で過ごしたという方もかなり多くいることでしょう。そして、平和を担う子どもたちの為にも、せめてもう少し目につきやすい展示・広報・資料化が必要ではないかと思いつつ、同町を後にしました。
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