「佐世保東山海軍墓地」(佐世保市東山町)は佐世保海軍鎮守府が当時、東彼杵郡日宇村福石免と呼ばれていた時代の同地を買収してつくったもので、日清戦争以降の個人碑や合葬碑が数多くあります。

(画像は墓地の一角と福石小学校)
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海軍墓地から遠くない中学校に赴任していた時、海軍墓地を借りてスケッチ大会をしたことがありました。
今思い返せば、どうかと思いますが、この時三年生の担任だった私は、「この生徒達であれば、マナーを守り、問題なく行うことが出来る」という確信があり、事実その通りでした。
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生徒たちは、おそらく佐世保の街が海軍鎮守府とともにできたことも、日清・日露戦争時に連合艦隊が佐世保港から出撃していったことも知らなかったでしょう。
ましてや、同墓地に立つ像が、かつて佐世保海軍鎮守府の司令長官や連合艦隊司令官として世界に名をとどろかせた「東郷平八郎」のものであると気づく生徒はいなかったでしょう・・・。無理もないですが。
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墓地の一角にある航空母艦「大鷹」の合葬碑。

「感謝」「合掌」の言葉の後、
「海ゆかば」の歌詞が刻まれています。
「海ゆかば」は、「君が代」と時同じくして、明治13年に海軍省が宮内省に委嘱作曲したもので、将官礼式用に作られたものです。

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空母「大鷹」は、碑文にもありますが、日中戦争勃発後、国内の大型商船を空母に改造したものの一隻です。元々三菱長崎造船所で豪華客船「春日丸」として建造中であったのを軍が徴用し、佐世保海軍工廠にて「大鷹」へと艤装しました。
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航空母艦「大鷹」
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碑文によると、大鷹は数々の海戦に出撃し、数百機の零戦を運んだとあります。そして昭和19年8月18日、南シナ海にてアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、数百人の将兵とともに海中に没しました。

(写真はwikipediaによる甲板上の零式戦闘機。空母名は不明)
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(同じくwikipediaより零式戦闘機)
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当時、「国のために死ぬのが美徳」という教育を受け、戦場に散っていった230万人とも言われる兵士たち。
当然のことですが、それぞれの中に語り尽くせないドラマがあったことでしょう・・・

そしてそれは今につながる歴史の、紛れも無い一頁なのですね。

この地でスケッチをしていた生徒たちも今では30才近い成人となり、家庭や子どもを持つ者も大勢おります。ひとりひとりが平和を希求する社会人となっていることを願うばかりです・・・。




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