長崎新聞での連載「僕の子ども絵日記」で、2009年6月28日の21回は、大村市の萱瀬ダム下流の田下町を舞台にしました。大村市内あちこちを方々歩いて、ここへ来た時、この石垣にひと目見て惹きつけられ、すぐにここに決めました。
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この回の作品は、自分なりに気に入っている作品のひとつになりました。
僕の

後にこの場所を訪れた時に、この石垣の「由来」について知ることとなりました。
太平洋戦争の最中、この場所には大村海軍航空隊の航空廠(軍の航空機工場)のプロペラ製造工場があったそうです。おそらく激しくなってきた本土空襲を避けるために、このような山間の場所に疎開してきたのでしょう・・

そして、石垣の石は、朝鮮半島の人たちによって郡(こおり)川から運ばれ、築かれたのだそうです。独特の丸みがあるのは、この為だったのですね。それにしても、これだけの大石を運び上げるのは、さぞ大変であったことでしょう・・・。
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日中戦争突入により拡大した戦線、さらに緊迫した国際情勢に対応するため航空機増産の必要性が高まり、昭和16年10月に大村に「第21海軍航空廠」が開設されました。
同19年の竣工時には、大村航空廠は200棟の工場群、従業員4万人を超す、「東洋一の航空機生産工場」となっていました。

画像は昭和18年に撮影された海軍航空廠でのスナップで、学徒動員の大村中生たちが零式水上観測機の前とで教官とともに写っています。「学徒」と呼ぶには、あまりにも幼く見えます・・・
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その大村海軍航空廠も同19年の10月25日にB-29による大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けています。彼らは無事だったでしょうか。

私が描いた石垣は、おそらく疎開工場の軍幹部の管理事務所か何かがあった場所なのでしょう。そしてプロペラ工場に関する資料や映像はおそらく永久に出てこないでしょう。
それらのものは、進駐軍がやってくる前に全て焼却処分されているでしょうから・・。
語り継ぐ人がいなくなれば、この石垣のことも、やがては完全に忘れ去られるでしょう。

それでも、私がこの石に惹かれたのは、石たちが呼びかけていた、ということなのでしょうか・・・。

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私たちの生活の身の周りにある道路、石垣、トンネルの中にも、同じような歴史を持つものが案外たくさんあるのかもしれません・・・

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