松浦市福島町原免(はるめん)鯛之浦。・・・現在では民家の1軒もなく、かつて人が暮らしていたということを想像することも難しく、ましてやここに賑わった炭鉱町があった・・・とは到底信じられないような状況になっています。
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わずかに残るコンクリートの構造物や、緑に飲み込まれつつある廃屋だけが当時の名残をとどめるものとなってしまっています。
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今回は、この場所にあった鉱業所や社宅街の様子などを紹介したいと思います。






「にあんちゃん」では、冒頭お父さんがなくなった葬儀のシーンで炭鉱住宅街が映っています。
(以下各画像、クリックで拡大)
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海岸に沿ってひしめくように建つ社宅。・・・この景観がもし残っていたとしたら、まちがいなく景観遺産ですね。
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海の向こうに見えるなだらかな山の稜線をみると、佐賀県肥前町の「大甲二峰」に間違いないようです。となると、この場所も鯛之浦ということになると思います。
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二階建ての炭鉱住宅もめずらしいものと思いますが、西海市大島には、同タイプのものが現存しています。おそらく同時代のものであると思われます。
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「文化会館」の看板が見えます。ここは集会場などとして使われた場所ではないでしょうか。右の建物には「宮島醤油」とあります。宮島醤油は唐津市にある醤油会社です。(創業明治15年)PICT0016

炭鉱住宅前。
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鉱業所の建物前を通る運炭軌道。
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背後に見えるのも鉱業所の建物でしょう。
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社宅街の中にある洗濯場。主婦たちの社交の場でもあります。
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社宅も二階建てのものと平屋のものがあるようです。
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社宅玄関。水桶が見えるということは、まだ水道がなく水舟などによる輸送が行われていたということでしょうか。
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船着場付近。集会場の横には郵便局が見えます。
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海岸に面した住宅。商いなどをされていた場所でしょうか。
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賃金うけ日の事務所前。受け取りに来た多くの奥さんたちと行商のおばさんたちの姿があります。
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船着場。当然橋が架かっていない時代(昭和42年架橋)なので、ここが住人たちの玄関口でした。
「鶴ノ鼻」となっているのは「大鶴」と「鯛之鼻」を合わせた地名でしょう。
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発着所付近。左手に石炭を積んだ貯炭ポケットが見えます。
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住宅。左側、作りつけのように見える場所はWCです。海辺らしく干物も見えますね。
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炭鉱住宅街風景。実際このように出勤していく鉱員さんたちの姿が見られたことでしょう。
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居候となった、にあんちゃんと安子が恨めしそうに朝食をとる家族を見つめています。夏であれば、このように戸や窓を開け放ち、通りからも室内がよく見えていたことでしょう。
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二人の向こうにも食事をするお隣さんが見えています。
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診療所での安子と先生。
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診療所だけはかろうじて崩壊しつつも残されていました。しかし、崩壊寸前で間もなく姿を消すものと思われます。
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首切り闘争のため、集まった鉱員と家族たち。運炭線の橋にもぎっしりと立っています。
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事務所内。外に運炭線が見えています。手前の箱に書かれている「捲方」「ボイラー」「ポンプ」「炭函」「ヂーゼル人車」はすべて坑道外での仕事の種類を表しています。
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炭函の移動するコンクリート橋。
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同じく。
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このコンクリート橋は一部が残されています。構造もまったく同じものであることがわかります。
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コンクリートの台座。この上には捲き上機など大きな機械や建物が乗っていたと考えられます。
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しかし、当時をうかがわせるものは、これらほんの一握りの構造物だけにすぎません。街そのものが消滅してしまっているかのようです・・・
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