昭和30年頃に作成された地質図に記載された「深浦炭鉱(Fukaura Coll)」。2週間ほどまえに岡山県から来られた方のお話では、ご祖父と母親がここにおられたということでしたが、不思議なことに「小佐々町郷土誌」には、この深浦炭鉱についての記述が無く、大正期でこの場所での採炭を終えていることになっています・・・。
このままでは、ここに炭鉱など無かったことになってしまうのでしょうか・・・・?
このままでは、ここに炭鉱など無かったことになってしまうのでしょうか・・・・?
実は「深浦鉱」は、お隣り鹿町町にあった神林炭鉱(野上東亜鉱業株式会社・昭和13年日鉄より鉱区買収)が同26年に深浦を開坑しています。つまりここは「神林炭鉱・深浦鉱」であったというわけです。独立した炭鉱ではなかったので、小佐々町郷土誌には記載されなかったようですね。
深浦鉱があった場所には、「長屋風な」お年寄りの方々の施設があるものの、まさかここが炭鉱町だとはほとんどの人が気付かずに通り過ぎてゆきます・・・
あえてその痕跡を探してみれば、施設と道路を挟んだ反対側に、それらしい風情がかすかに残っています。この辺りには住宅はそういくつもあるわけではないのですが、新聞販売所跡の看板が見えます。スポーツ誌まで扱っていたというのは、何よりも炭鉱町の証し・・ですね。
国道18号線から上矢岳川に沿った場所。ここに社宅群がありました。奥の方に錆びた鉄橋が架かっています。
橋のたもとには川面へ降りられる石段がありました。操業中は炭で濁っていたのでしょうが、その後洗濯場として使われたのでしょうか?洗濯板のようなものが見えます。
鉄橋を渡った先の広い場所。今は温室(跡)や畑となっていますが、ここが鉱員家族の方々が暮らした街があったようです。
暮らしの跡・・・・ですね。地元の方の話では、やはり住宅がこの辺りにひしめくように建っていたそうです。そして、たまに「ここに住んでいた」という方が訪ねてこられるそうです。
基礎ひとつ、石垣ひとつ残っているのもはありません。
草をかき分けてみると、所々石炭の小片が見つかるだけです。
ツバメのマークは、丸善石油のものでしたっけ。これもかすかな炭鉱街の跡ですね。
かつての深浦坑・坑口。もうここを特定することは非常に困難でしょう。
すっかりペイントが白くなってしまった西肥バスの「深浦」バス停。このバス停の有り様が、炭鉱街が消えて久しいことを如実に物語っています・・・
しかし、まちがいなくこの場所にも地底で働いた男たちの職場があり、それを支えた家族たちの暮らしがありました。
今度は、積み出しが行われていた深浦漁港の方へ向かってみます。
まだ漁船は数隻、動いているようでしたが、閉山後の基幹産業であった「いりこ」工場は閉鎖されてしまっていました。近所の方のお話でも、「ここいらは、すっかり活気が無くなってしまった」ということでした。
炭鉱が栄えていた頃の深浦住宅です。この港をぎっしりと鉱員住宅が取り囲んでいたのがわかります。
その住宅は50年経った今、そのほとんどが取り壊されており、見る影もありません。ただ、運炭線の跡だけが、細い道路として残されているのみです。
この空き地の脇に続く、コンクリートの道も運炭線の跡でしょう。このコンクリート道は、やがて藪の中に消えていきます。
鉱業所や炭鉱町の面影もほとんどありませんが、残された数棟の古い建物に、かつての雰囲気を少しだけ感じることができます。
遠くに見えるの鯉のぼりに、救われた思いがしました・・・。
ここが昭和33年には約1.000人を数える職員・従業員さんとその家族が暮らした街、深浦です。
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
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深浦鉱があった場所には、「長屋風な」お年寄りの方々の施設があるものの、まさかここが炭鉱町だとはほとんどの人が気付かずに通り過ぎてゆきます・・・
あえてその痕跡を探してみれば、施設と道路を挟んだ反対側に、それらしい風情がかすかに残っています。この辺りには住宅はそういくつもあるわけではないのですが、新聞販売所跡の看板が見えます。スポーツ誌まで扱っていたというのは、何よりも炭鉱町の証し・・ですね。
国道18号線から上矢岳川に沿った場所。ここに社宅群がありました。奥の方に錆びた鉄橋が架かっています。
橋のたもとには川面へ降りられる石段がありました。操業中は炭で濁っていたのでしょうが、その後洗濯場として使われたのでしょうか?洗濯板のようなものが見えます。
鉄橋を渡った先の広い場所。今は温室(跡)や畑となっていますが、ここが鉱員家族の方々が暮らした街があったようです。
暮らしの跡・・・・ですね。地元の方の話では、やはり住宅がこの辺りにひしめくように建っていたそうです。そして、たまに「ここに住んでいた」という方が訪ねてこられるそうです。
基礎ひとつ、石垣ひとつ残っているのもはありません。
草をかき分けてみると、所々石炭の小片が見つかるだけです。
ツバメのマークは、丸善石油のものでしたっけ。これもかすかな炭鉱街の跡ですね。
かつての深浦坑・坑口。もうここを特定することは非常に困難でしょう。
すっかりペイントが白くなってしまった西肥バスの「深浦」バス停。このバス停の有り様が、炭鉱街が消えて久しいことを如実に物語っています・・・
しかし、まちがいなくこの場所にも地底で働いた男たちの職場があり、それを支えた家族たちの暮らしがありました。
今度は、積み出しが行われていた深浦漁港の方へ向かってみます。
まだ漁船は数隻、動いているようでしたが、閉山後の基幹産業であった「いりこ」工場は閉鎖されてしまっていました。近所の方のお話でも、「ここいらは、すっかり活気が無くなってしまった」ということでした。
炭鉱が栄えていた頃の深浦住宅です。この港をぎっしりと鉱員住宅が取り囲んでいたのがわかります。
その住宅は50年経った今、そのほとんどが取り壊されており、見る影もありません。ただ、運炭線の跡だけが、細い道路として残されているのみです。
この空き地の脇に続く、コンクリートの道も運炭線の跡でしょう。このコンクリート道は、やがて藪の中に消えていきます。
鉱業所や炭鉱町の面影もほとんどありませんが、残された数棟の古い建物に、かつての雰囲気を少しだけ感じることができます。
遠くに見えるの鯉のぼりに、救われた思いがしました・・・。
ここが昭和33年には約1.000人を数える職員・従業員さんとその家族が暮らした街、深浦です。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
*記事をご覧の皆様へ
皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
メールでしたら、
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ラインでしたら、管理者 江島のラインまで、送って頂ければと思います。
携帯電話番号は 090-8838-6389 です。
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皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
毎回の炭鉱跡レポート、今回も黙って読み味わうのみでした。鉄道好きの私としては、つい鉄道路線沿いの炭鉱ばかり目につきますが、中小炭鉱まで考えると、広がりを感じます。
ところで、今回のブログ表紙?!、報国=松浦鉄道(清峰高校前~神田)ですね。ここの炭鉱跡も読ませていただいたのですが、このバス停近くに水子供養の地蔵が建ち並ぶ寺があるのですが、何か炭鉱関係とあるのかないか気になるところです。
また、炭鉱跡レポート、楽しみにしております。