長崎市の中島川河口付近に架かる「常盤橋」。今は繁華街「浜の町」へいく主要道として多くの人や車が通る場所です。
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1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾の目標地点は、このなんでもない小さな橋でした・・・・
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この地点が投下目標として選ばれた目的は、長崎市の地図を見れば一目瞭然でしょう。対岸の三菱重工を壊滅させることが出来るし、すり鉢状になっている長崎市での被害データをサンプルとして収集しやすかったということなのでしょうね・・
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もし予定通りここに投下されていたならば、古い長崎の史跡はもっと徹底的に破壊され、今の「観光都市・長崎」は随分と違ったものになっていたかもしれません。
(常盤橋のたもとに残るカトリック教会の碑)
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私は中高生の頃から、当時のアメリカ大統領ルーズベルトが急死してトルーマンに代わったから、原爆が落とされたのではないかとずっと胸の中で思っていました。写真に見られるやさしい表情のルーズベルトは、どこか祖父の姿とも重なり、とても原爆投下を許可するような人物には見えなかったからです。
でも、当然そんなことは誰にも言えませんでした・・・。
(しかし原爆製造から投下に関する計画そのものがルーズベルトにより推し進められたことは、紛れも無い事実です)
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しかし、ネットでいろんなリベラルな情報が閲覧できるようになり、やはり当時のアメリカには「原爆投下」に対する反対が多く、トルーマンが周囲の制止を振り切って投下させた、という見識が大勢をしめているようです。

その中のひとり、ニールス・ボーアを紹介します。
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『 デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。

1944年5月16日にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。(wikipediaより) 』

「アメリカの日本への原子爆弾投下」に対し、当時の多くのアメリカの要人が批判するコメントを残しています・・。今回はそのほんの一部を参考までに紹介いたします。


  • 「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国務長官 元世界銀行総裁
  • 「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味も持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官

  • 「戦争」という言葉があてはまったのは、日本史においては日露戦争の頃までではないかと私は思っています。つまり軍同士が戦って、その結果勝敗が決まるという。
    その後、化学兵器や細菌兵器、そして核兵器という一般市民をも対象とした攻撃はもはや、「戦争」などではなく、「大量殺戮(ジェノサイド)」という異常行為でしかないと思うのです。


    投下と同じ午前11時2分に見上げた常盤橋上空です。
    空はあの日と同じように、びっしりと雲に覆われていました・・・・。
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    「被爆のこと・遺構・建造物」 記事一覧




    *(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月