今は無き立神小学校へのスロープ。その途中に置いてある坂道専用のゴミ運搬函が、いかにも長崎らしい景観をつくっています。かつてはこの坂を大勢の子どもたちが通っていたのでしょう・・・。
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しかし、坂を上り詰めても、そこに懐かしの校舎はありません。
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横の坂をお年寄りの方がゆっくりと歩いてゆきます・・・この先にもういくつも家はありませんが。
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校門跡のわきに残る「創立80周年記念植樹」の碑。人が通わなくなると、こういった碑も朽ちていくのが早いのでしょうか・・・
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町へ降りてみます。
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立神地区は東西の立神町からなります。以前は浦上淵村立神郷であり、陸路も細道しかない、まさに「陸の孤島」でした。(明治31年、長崎市編入) 
ここに住民悲願の自動車道が開通したのは昭和33年のことでした。
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陸路ができる前までは住人の足はもっぱらが船であり、造船所が埋め立てを行う前は「立神桟橋」がこの地区の玄関口でした。その名残を示すように、町はまるで離島のような構造をしています。
狭い範囲にいろんなお店や施設がかたまっています。ここに見えるのは「薬局」「酒屋」「電気屋」などですね。
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こちら側には「床屋」「郵便局」そして奥には「立神公会堂」が見えています。また近くには「銀行」「公園」「お寺」「病院」などもあります。
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立神公会堂は昭和10年に東西立神町によって建てられ、集会場として長く住人の方々に利用されてきたようです。
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プレートには「昭和40年5月1日 寄贈 三菱重工株式会社長崎造船所」とあります。
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立神工場へとつながっている通路。朝夕には多くの工員さんなどが通ったことでしょう。
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個人病院の表記にも歴史を感じます・・・
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たとえ学校は無くなっても、この場所にいつまでも人の影があり、そしてこのように猫がのんびりとひなたぼっこをしている光景が見られることを願わずにはいられません・・・。
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記事を読まれた卒業生の方からの思い出のコメントを付記しておきたいと思います。こういった「記憶」こそ何より貴重な「記録」でもあるあわけですから・・・。


『 あまりの懐かしさに涙流しながら拝見しました。


校舎は3階建てと体育館と並行するように4階建てもあったこと。

体育館右側の溝には清水が流れていて、サンショウウオが居たこと。

体育館の緞帳にぶら下がってターザンごっこして、怒られたこと。

学校からは山と造船所しか見えないので、スケッチ大会ではみんなクレーンを書いていたこと。

夕方は立飲み屋で大人たちが酒盛りをしていたこと。
小学校への坂道で担任がバイクで転倒し、鎖骨骨折し卒業式に出られなかったこと。

床屋さんに横には、体操服等を売ってる衣料品屋があったこと。

牧醫院は、以前は五十嵐醫院って言っていたこと。(先代が婿さんらしい)

立神には公会堂があるって自慢していたこと。


等々・・・いろいろなことが思い出されました。^^
懐かしい思い出です。^^  』



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