山住炭鉱(佐世保市白仁田町1864)。小川内川の側にあるこの炭鉱の開坑は北松浦郡時代の昭和12年。こののどかな場所にあった山住炭鉱は渓谷にあるが故に、度々水害に見舞われました・・・

名称ともなった、近くの山祇神社。秋には縁日なども開かれ、賑わったことでしょう。
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昭和16年6月の豪雨では、『 言語に絶した惨状を呈し、死傷者さへ出し、全坑水浸しのもの、浸水のため全滅の危機に瀕したものなど、その被害は実に莫大なものがあり、百余坑の炭鉱は一斉に休坑のやむなき状態 』という記録が残っています。
山住鉱では、「刻々増水、復旧見通し立たず」という状況でした。他坑も水没など、甚大な被害を受けています。
昭和23年の豪雨においても、山住鉱は甚大な被害を受けました。

付近にかかる橋。
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山住鉱のあった場所。鉱業所あとはリサイクル工場がたっていますが、わずかに炭鉱住宅が残り、当時の面影をとどめています。
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炭坑時代からここに住んでいたという、おばあちゃん。この笑顔こそ「炭鉱町の遺産」そのものですね。
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住宅の側の山際に残るコンクリートの遺構。
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典型的な炭鉱住宅の長屋造りをした家屋。
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鉱業所と川を挟んだ向こう側の家屋。コンクリート製のバルコニーも鉱業所の名残であろうと思われます。
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かつて坑口があったという場所。今はリサイクル工場の建物がたっています。
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昭和44年2月16日、山住炭鉱閉山の日の記録には、次のようなレポートが残っています・・・

『 全156人、うち35歳未満29人。山住炭鉱は月産6000tの典型的な中小鉱だ。いまから入坑するという二番方の採炭夫たちと会った。みんな五十年配の人たちばかり。ヒゲがのびた生活に疲れた採炭夫たちの顔には黒ダイヤと言われた全盛期のたくましい気力はまったく感じられなかった。「刀折れ、矢つきた。閉山よりほかに道はないだろう」と語る松崎専務の言葉にも力が無く、低くたれこめた冬空が炭鉱で働く人たちの気持ちをいっそう重苦しくしていた。 』



2014年11月、この街で暮らした方からのコメントをそのまま記事に加えたいと思います。暮らしのあった炭鉱街がどういう場所であったかをよく知る手がかりとなると思いますので・・・

『 懐かしく拝見しました。私は山住炭鉱の組合で組合長をしておりました娘です。中里中学校を三ヶ月過ごして、それからは横浜に住んおります。現在60才。50才台の時、三度ほど山住を尋ねたことがありました。帰った時、ビックリしました。道幅もとても狭く感じ、幼い頃、お使いに行ってと頼まれ、渋々川を渡り川向こうのお店に行ったものです。お店は二件ありました。マツカワさん(かき氷やところてん当たりくじが着いている駄菓子、お米もありました。)もう一軒は高橋?と言ってたかな?定かではありません。上の写真に有ります。そこはお酒や煙草、衣料品もありました。話がズレてしまいました!あまりにも懐かしくて、ごめんなさい。話の続き幼い頃は遠くに思えた川向こうはお店が大人になって行ってみたら、こんなに近かったのかと。。大きく見えていた、長屋家屋、小さかった!写真の中の神社も凄く小さく狭い敷地でした。盆踊りをしたり紙芝居を見たりラジオ体操をしたりと50年前のことが昨日のように思い出されて涙が溢れ出ます。写真の中のおばちゃん知ってる!名前が浮かばない!隣のおじさんに大人になって尋ねた時、あんた、こないだもきとった人やなかね?と言ってくれたおじさん!懐かしい!!また何時の日か尋ねて行こう!!! 』



2015年6月、またこの街で暮らしておられた方から新たなるコメントを頂きました。大変有難いことだと感謝しています。このお便りもまた当時の生活の様子や暮らされていた人々の心情を知ることの出来る貴重な「資料」だと判断しましたので、誠に勝手ながら掲載させて頂きます。


『 わたしも昭和33年7月まで、山住炭鉱で過ごしていました、現在65歳です、当時皆瀬小学校2年生でしたが、落盤事故で父が亡くなくったので宮崎に引き上げ学校を出て今は同じく横浜市で暮らしています、年を重ね昔を思い皆瀬小学校の事をPCで調べている内、此処のページに行きあたりました、いやー貴方と同じく懐かし風景がありました、あの神社の境内でよく紙芝居を水あめを舐めながら見ていました
橋のたもとで釣り糸を垂れていると父が心配して「そこには魚は居ないから帰ろう」と向かえに来てくれていました、又川向うの店は、まつかわさんと言うのですか、おっしゃる通り、ところてんを食べによく行きました。神社の近くには炭鉱直営の生活用品を売る大きな売店があったような記憶があります、その向こうに散髪屋がありその向こうにボタ山に登るトロッコの線路が山に向かって伸びていました。其の途中にある炭住に私達の家族はすんでいました。又坑夫の風呂は大きく、3段になっていて下の段でざっと汚れを落とし中段で石鹸を使って洗い上段が上がり湯になっていました、子供はよく上から下に投げ落され楽しかったですよ。
アトリエ隼様どうもありがとうございます、元気で動けるうちにぜひ一度兄妹達と訪れようとおもいます。
追伸
昨今韓国と芳しくない様ですが当時朝鮮の方も同じ炭住に住んでいて仲良く生活していました、伊くんとか、陽子ちゃんとか子供同士も中良かったです、みんな貧しかったけど助けあっていたように思います、それがちょと寂しいかな。 』 


2017年4月、また新たなるコメントを頂きました。大変有難いことだと感謝しています。このお便りもまた当時の生活の様子や暮らされていた人々の心情を知ることの出来る貴重な「資料」だと判断しましたので、誠に勝手ながら掲載させて頂きます。

『 たまたま、このブログを見つけて懐かしさのあまりコメントさせていただきます。
私ではありませんが、父が此方の出身で小学生までは関西から毎年夏休み期間中、殆どを此処に住む祖母の家で暮らして居ました。
当時は近所に住んでいた同級生位の子供達と写真にある神社や川でよく遊んだものです。
そして他の方のコメントにあるように散髪屋があって神社の横に売店がありましたね。祖母に連れられて散髪をした記憶がありますし、売店の主人の息子さんが父の同級生だったように記憶しています。
それから私の記憶ではカワセという店があり、そこで食料品やお菓子などが売っていたように思います。
私は祖母に小遣いをもらって毎日お菓子を買っていました。
また、このカワセは店の裏が川にはみ出すように建てられていたので、子供心に、こんな建て方で大丈夫なのかなと思っていました。
父は既に亡くなりましたが、生きていれば現在66歳です。
2年前に久しぶりに訪れましたら、殆ど変わらない風景でしたが、毎日石を投げて遊んでいた祖母の家の前にあった広場には倉庫のような建物が建てられていました。ただ、祖母の家がそのまま残っていたのは嬉しかったです 』


*記事をご覧の皆様へ

皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
メールでしたら、
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ラインでしたら、管理者 江島のラインまで、送って頂ければと思います。
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皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

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