長崎市・諏訪神社の祭礼、「おくんち」で賑わう大波止付近。中島川に架かる大波止橋の近くに廃線の鉄橋跡と蒸気機関車の動輪がモニュメントとして残されています。
この鉄橋跡は、昭和5年に「長崎港駅(現・出島ワーフ付近)」に接続していた国鉄長崎本線が通っていた跡です。同62年に正式に廃止となるまでは、おくんちの日に限り、この鉄橋が通行用として開放されており、幼い頃少々恐い思いをしながら渡っていた記憶が今でも鮮明に残っています。
この鉄橋跡は、昭和5年に「長崎港駅(現・出島ワーフ付近)」に接続していた国鉄長崎本線が通っていた跡です。同62年に正式に廃止となるまでは、おくんちの日に限り、この鉄橋が通行用として開放されており、幼い頃少々恐い思いをしながら渡っていた記憶が今でも鮮明に残っています。
在りし日の「日華連絡船発着所及び長崎港駅」。駅舎の向こうに上海航路の貨客船が写っていますが、かなり大きな建物であったことがわかります。
昭和17年の関門鉄道トンネル開通の際には、この駅まで特急「富士」が乗り付けていたこともありました。
昭和初期に撮影された、出島岸壁に接岸中の長崎丸。手前には洋風の帽子に印半纏といういなせな人が写っています。
向こう岸にも鉄橋の橋脚跡が残っています。昔は人出も出店も今よりもずっと多く、多くの人がここを通行していたのです・・・
線路の枕木から下に見える水面が、当時はかなり高さがあるように見え、その隙間から下に落ちることを本気で心配していたものでしたが・・・・今となっては懐かしい思い出です。
今年は、懐かしい「お化け屋敷」の登場もありました。こういう興行ものも多かったように思います。
今年は秋晴れに恵まれた3日間でした。出島岸壁に腰掛け、眼前の観光丸を眺めながらお好み焼きをつつくというのも、なかなかおつなものでした。
昭和17年の関門鉄道トンネル開通の際には、この駅まで特急「富士」が乗り付けていたこともありました。
昭和初期に撮影された、出島岸壁に接岸中の長崎丸。手前には洋風の帽子に印半纏といういなせな人が写っています。
向こう岸にも鉄橋の橋脚跡が残っています。昔は人出も出店も今よりもずっと多く、多くの人がここを通行していたのです・・・
線路の枕木から下に見える水面が、当時はかなり高さがあるように見え、その隙間から下に落ちることを本気で心配していたものでしたが・・・・今となっては懐かしい思い出です。
今年は、懐かしい「お化け屋敷」の登場もありました。こういう興行ものも多かったように思います。
今年は秋晴れに恵まれた3日間でした。出島岸壁に腰掛け、眼前の観光丸を眺めながらお好み焼きをつつくというのも、なかなかおつなものでした。
*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は衰退しつつある、故郷・長崎の良いものを未来に向けて、広く伝える事です。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
そして私と江島さんとの出会いは、新大工町の山口酢醸造店に掛けてあったこの鉄橋を渡るイラスト見たのがきっかけなんですよ!
5、6年前になるでしょうか、お袋の認知症が進行し、家の事や食事のことでイライラしながら新大工で買い物をするのが私の日課でした。
そんな時、ふと山口酢醸造店に飾ってあった鉄橋を渡る親子の絵を見た瞬間、思わず目頭が熱くなりました。
お袋が私の思うようにならないので結構辛く当たったりもしていたのですが、江島の絵を見た途端、優しかった両親や楽しい思い出が蘇り、もう少しお袋には優しく接しないとダメだと気づかせてくれました。
江島さんが描かれた鉄橋の絵もブログに載せて欲しかったですね。
今度、拙い私のブログで依頼して描いて頂いた絵と合わせて、ご紹介したいと思いますがよろしいでしょうか?
家族や人との温かな繋がりを感じさせてくれる江島さんの絵を私は好きです。