戦時中、長崎市におけるトンネル工場と言えば、「三菱兵器住吉トンネル工場」が有名ですが、もともとあったトンネルもまた空襲を避けるための工場疎開地として使われました。

戸町トンネルは昭和8年5月完成。長崎市と南部を結ぶこのトンネルも軍需工場として使用されました。
(爆心地から5.3km)
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戸町トンネルは昭和20年7月初め長崎造船所幸町工場から小型旋盤など120台の機械をトンネル内に移しました。戸町の「と」を丸で囲んでマルト工場と呼ばれ、学徒が動員されて軍艦のエンジン部分をつくっていました。トンネルの入り口は両側とも塞がれ、車輌は迂回していました。
8月9日の原爆投下の日、爆風はこの戸町トンネルにも及び、中は停電で真っ暗になりました。住吉トンネルと同じく、負傷者が次々とトンネル内に避難してきました。
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トンネルのすぐ近くにある小菅修船場の敷地そばにある「三菱用地?」の標柱。時代的に昭和に入ってからのものに見えるのですが・・・軍需工場と何か関係があるのでしょうか?
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大正15年3月に完成した日見トンネル。昔からこの辺りの日見峠は「西の箱根」と呼ばれた程の難所でした。
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写真は明治15年に切り下げられた日見新道の写真です。その後大正13年に着工し15年に完成した日見トンネルは全長642mで当時としては日本最長の自動車トンネルでした。現在は歴史的遺産として有形文化財に登録されています。
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日見トンネルは三菱の兵器工場として昭和19年頃から学徒動員を主体に魚雷部品をつくっていました。一般の車両は旧長崎街道を迂回していました。(爆心地から5.8km)
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この2つのトンネル、長崎市民であればどちらもよく通行するトンネルなのですが、戦争中に軍需工場として使われたということを知る人はあまりいないようです。

ぜひ今度この2つのトンネルを通行する時には、中で若き学生達が作業している光景を少し想像してみてください・・・・。

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