三菱重工長崎造船所の150トン・クレーン。・・・見慣れた景色だけに、誰も特に意識はしていないようですが、100年も前に組み立てられたものが、明治・大正・昭和・平成と4つの時代をまたいで、変わらずこの地のランド・マークとして存在する・・・という事実はすごいことです。しかもまだ現役として稼働中です。(現在、国内で稼働中の、このタイプのクレーンは、佐世保市の250tクレーンとこの150tクレーンだけ)
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つまりこの150トン・クレーンは、太平洋戦争の空襲と、あの原爆をもくぐり抜けてきたわけです。
この150トン・クレーンは文字通りランド・マークであったため、米軍機から爆撃目標にされ至近弾を受けたこともありましたが、大きな被害からはのがれてきています。また、原爆の猛烈な爆風にも耐えています。爆心地から遙かに遠い伊王島の灯台が爆風により歪んだ、という事例をとっても、このクレーンが倒されなかったという事実は、驚異的なことです。


昭和20年8月1日の空襲による被災
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原爆投下後、9月14日に撮影された写真

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また戦時中、英国軍の捕虜たちが造船所で就労していた際、この150tクレーンがスコットランドから来たことを知ると、毎日感慨深げに、このクレーンを眺めていたそうです・・・


大正2年に進水した巡洋戦艦「霧島」に艤装作業中の150tクレーンです。150tクレーンは、明治42年にスコットランド、マザーウェルのマザーウェル・ブリッジ社から輸入したものです。まだ組み立てられて間もないためか、全体が白っぽい色をしていますね。
ちなみにこの時代は日露戦争後、国内で戦艦を量産しようとしていた時期です。後に150tクレーンは戦艦土佐や武蔵など多くの艦船の艤装作業を行っています。
クレーンがスコットランドから来た理由の第一は、明治35年に結ばれた「日英同盟」がなんと言っても大きかったと思いますが、同44年に亡くなっているトーマス・グラバーの何らかの影響もあったのではないかと、推察されます・・・。
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昭和2~3年頃の飽ノ浦艤装岸壁と150tクレーンです。接岸しているのは、オーストラリアの客船です。
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ちなみに、昭和14年より、写真右の「150トン・海上クレーン」なるものも登場していますが、こちらはその後どうなったか、定かではありません。(左は150tクレーン)
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150tクレーンを上方より見た図です。
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普段は意識していないだろうと思うのですが、長崎造船所に通う人たちにとっては、正門の奥にいつも見えているのが、このクレーンであり、そういった意味では「三菱長崎」のシンボルでもあるでしょう・・・
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韓国や中国企業の進出により苦境が伝えられて久しい三菱長崎造船所・・・。また街も不況にあえいでいますが、この102歳で現役の150トン・クレーンが今日も働いている姿を見ると、「負けられん!」という気持ちになりますね・・・・。
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電動式槌頭起重機(ハンマーヘッド・クレーン)
吊り上げ能力 : 150トン
高さ : 61m
ジブ長 : 73m
使われた鋼材 : 約1千トン
購入価格 : 28万8千円(明治42年当時)

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