佐々町市瀬川沿いの山間では、古くから無数の狸穴(まみあな)採炭が行われていましたが、近代になって木田鉱、吉丸鉱、鴨川鉱など多くの炭鉱が開発されています。
しかし川沿いを歩いてみてもほとんどその形跡を見つけることは出来ません。
狭い峡谷の間を細い小径がたよりなく続くばかりです・・・

しかし、唯一皿山公園入り口付近に炭鉱町のなごりを見ることができます。これが佐々炭鉱の職員住宅跡です。
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佐々炭鉱は炭質などからも「有望な炭鉱」とされながらも、なぜだか次々と鉱主のかわった炭鉱でした。

その歴史は、明治30年、吉富 英一(開坑2年後に35歳で死亡)が「全仏鉱」として芝はぐり(開坑)したのを初めとして、大正2年から野村鉱業、秋穂庄助ら、日満鉱業、が手をつけましたが、いずれも本格とならず数年で廃坑となっています。昭和19年には大手、三菱が期待を背負いつつ経営に乗り出しましたが、なぜかこの三菱も同26年に放棄してしまいました。
 ここに来てやってきたのが、三井系の大物永田鉱業でした。永田鉱業は当時残っていた鉱員さんたちに、
「三菱系の崎戸炭鉱へ移りたい者は世話をする。このヤマに残る者は歓迎する」と述べ、先ず鉱員さんたちを優遇したので、結果的に多くの鉱員さんたちが残り、その後の増産につながったようです。
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それが後に「理想郷」とまで言われた炭鉱町を産み出すこととなりました。
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昭和36年の閉山から50年経っても尚、こうして集落が残り続けているということは、けっして永田鉱業主の温情と無関係ではないでしょう。もちろん現在でも多くの方がここで暮らしておられます。
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たまたま付近を通られた方に少しお話を聞くことができましたが、「ここはいろんな炭鉱会社が換わった場所だが、最終的には永田鉱業が経営した」ということをちゃんと認識しておられました。
また別れ際には笑顔で「お疲れ様です」との言葉をいただきました。
永田鉱業からつながる温情の連鎖をふと感じた瞬間でもありました・・・・


大阪にお住まいの吉冨 敏朗様より、以下のようなお便りを頂いております。どなたか、心当たりのある方がおられましたら、どうぞコメント欄への書き込みをどうぞ宜しくお願いいたします。

『 2011年8月1日の佐々炭鉱の記述をたまたま拝見いたしました。私は現在大阪に住んでおりますが、戸籍は佐々町古川免(現在は墓所しか残っておりませんが)です。記事中にある佐々炭鉱を開坑した「吉富英一」は、恐らく私の曾祖父にあたる人物だと思われます。炭鉱を開いた所謂「ヤマ持ち」だったことや30代で亡くなったことなどはそれとはなしに聞いておりましたが、今や父親や伯父なども死去していて、鉱山の名前など詳しいことは全く分からなかったため、ブログを全く偶然に発見して大変嬉しく思いました。今度墓参りで佐々を訪れた際には、ぜひ炭鉱跡を巡りたいと思います。(余談ですが、北松浦の栢木(かやのき)炭鉱事務所発行の「炭鉱札」の名義が「吉富英一」となっているものが松本一郎コレクションというものの中にあるようなのです。しかし栢木炭鉱は昭和13年〜29年の短い間しか運営されていなかったということで、曾祖父の生存年と時代が合いません。名前の偶然の一致なのでしょうか? 私は炭鉱札についても全く知識がありませんので、お分かりの方はいらっしゃいませんか?) 


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(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月