ほぼ岩礁であった端島(軍艦島)に石炭があるとわかったのは、江戸時代からでしたが、なにせ東シナ海に面した外洋に位置する岩礁でしたから、当時の技術力で石炭を採掘しようとしても限界がありました。
もともとの島(岩礁)の面積は、今の約6分の1にすぎませんでした。
端島S48

採炭のための何らかの施設を作ったとしても、台風あるいは台風並みの風浪が押し寄せては、それらの施設を破壊してしまったわけです・・・・
端島地盤072



何より炭鉱にとって恐ろしかったのは坑内に水が流れ込むことであり、海底炭鉱であれば、絶対的に海水の進入を防がなくてはなりませんでした。
明治20年8月12日には、端島鉱において海水が進入する事故が発生し、32人もの死者を出しています。

つまり大資本が参入しない限り、こういった場所での採炭は無理という状況なのでしたが、明治元年にこの端島で初めて開坑した人物は、「肥後の石工」で有名な熊本県天草の人・小山秀之進であり、その事が端島にもたらした成果は非常に大きかったようです。
(写真は明治23年、三菱が買収した頃の端島【軍艦島】)
gunkan086

波の破壊力がいかにもの凄いか、は今更言うまでもないと思いますが、炭鉱施設を守る以前に、人間の命を守るという役割を担わされていた護岸づくりにおいて、肥後の石垣づくりの技術力が発揮されました。
台風被害077

海底から1個1個砂岩を置いていき、その間を「アマカワ」と呼ばれる石灰と粘土を混ぜたもので固めていきました。軍艦島の護岸が緩やかなカーブをえがいているのも、アーチ橋建設などで培われた技術、すなわち波の抵抗をいかに逃がすか、という緻密な計算が成されている可能性があります。
夕顔丸別れS37327
その石垣とコンクリートを併用することにより、「外洋に位置する岩礁地帯」での人工島建設が可能となったわけですね。

小山の時代の石垣とアマカワが今でも堅牢に残っているというのは、驚くべき事実です。DSCF3425

それでも、現在もなお現代の技術力をしても困難を極める大波とのたたかいは続いているわけですが、坑道に迫り来る、数十トン/1平方mという地圧に立ち向かった当時の技術者と炭鉱マンたちにとっては、猛烈な風浪もさほど恐れる対象ではなかった・・と言います。
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護岸で囲み、ボタで埋め立てた「大地」を築くことによって、地下購買所などの居住空間を建設することも可能となりました。
地下購買会322

また、砂浜の海岸を持たないこの島において児童プールなどの施設を造るスペースを確保することにも成功しています。
南部プール988

「山道」と呼ばれる生活道路なども、石垣を積んで造成した人口地盤によって建設されています。
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夏の花火大会の図。後にかくも豊かな四季おりおりの行事が催された炭鉱町になろうとは、小山 秀ら先人たちにもおそらく想像がつかなかったでしょう・・・
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肥後の石工たちにその技術を伝えたのは、長崎奉行に勤めていた藤原 林七という武士であり、林七は長崎市内において中国人たちが掛けた石橋を研究してその構造や建設技術を学んだとあります。
つまり軍艦島が軍艦島として今、存在できているそのルーツには、名も無き武士や石工たちの努力があり、その前には中国から日本に渡ってきた多くの僧や職人たちの努力があったのだ、ということがわかってきます。
ちなみに「アマカワ(天川)」の語源は「マカオ」であるという説もあるようですので、深く追跡していくともっともっと広がりがありそうです。

こういったことを考えると、いかにこの島が「近代化産業遺産」として価値が高いか、が今更ながらしみじみと思われるのです・・・・。
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